僕がまずやったのは、学校のクラスの中で布石を打つ事である。クラスメート達に、子供が子供に悪い事をする。その時、された方が、大人にチクるという行為をよくない事だ。
そういう思想を、クラス中に伝播させていった。つまり、逃げ道を閉ざす事から始めた。チクる行為は、ダサい。弱い。と。僕は皆に、言ったのだ。僕が行う犯罪を簡単に、大人にチクられたら、緑の世界は創れない。
クラス中に、僕が打った思想の布石が一個、また一個と拡がって、クラスの共通認識になってから。
部活動のソフトボールの時間に、僕はあいつが好意を持っている先輩に、あいつと一緒にいる時、わざと敬語を外し、タメ語で喋ってみた。
あいつは、目を釣り上げ、鼻を膨らませ、声を荒げ、先輩には敬語を使えと、命令してきた。
あいつによると、敬語も使えないような奴は小学生なのだそうだ。あいつは常々、型に入らない者を唾棄してきた。たとえば、僕が自分の事を僕と呼ぶ事でさえ、怒鳴って注意してくる始末。たしかに、ほとんど多くの女の子は、自分の事を僕とは呼ばない。もちろん、僕はそんな常識は知っているが、世の中の常識に寄り添わず、あえて外している。
今は僕もあいつも中学一年生。
僕は中学生になるもっと以前から、他の子と同じで、世の中には仕組みがあるという事はわかっていた。雛形と言ってもよい。人間が社会生活を営む上では、雛形に入って生きていく方が楽なのだ。そして、雛形に入る者が多ければ多い程、社会は秩序立つ。だから、学校で僕達に勉強を教えてくれる大人の事を、先生と呼びなさいと言われたら、何の疑問もなく、小学生の頃から先生と呼ぶという、そんな誰が創ったかわからない雛形に入るし。
中学生にもなると、先輩や学校で僕達に勉強を教えてくれる大人へ敬語を使うという雛形に入って、敬語を使うようになる。もちろん、僕はこの雛形を認知しているけれど、必ずしもこの雛形が正しいと思っているわけではない。だから、小学五年生のある日から、学校で僕達に勉強を教えてくれる大人の事を先生とは呼ばない事にした。呼ぶ時は、苗字とさん付けだ。僕は中学生になってから、先輩にも大人にも敬語で話していた。雛形が正しいわけではない。それは、わかっている。でも、わざわざ雛形に入っていく者の心理を識る為、そして、やろうと思えば出来るという事を証明する為、あえて、年上には敬語を使うという雛形に入っていただけだ。
「先輩には敬語を使う。常識だろ、クズが」
こいつは、正しさというものを何か勘違いしているみたいだ。その証拠に、僕を小学生だとか、クズだとか、強い言葉で圧をかける事しか出来ない。
誰かが創った雛形は必ずしも正しいわけではない。
「山田さん、年上に敬語を使わないといけない、その理由と意味を教えてくれませんか?」
私はこいつの目を真っすぐに、睨めつけた。
「本気で言っているのか? そういうルールがあるからだ」
ルール? 僕はルールを壊し、ルールを創る側に回る。年上に敬語を使わない事が、誰かを傷つける事だったら、このルールは正しい。でも、そうではない。
こいつはやっぱり、わかってない奴だと思った。
「まあまあ」
先輩が言った。先輩が私の名前を呼び、僕には敬語を外して話してもよいよと言ってくれた。