サニーベール(カリフォルニア州)からの交流会が終わり、帰って行った6/19(水)は、そのプログラムの一貫として麻生邸(飯塚市ではあまりにも有名)に約100人近くが集まりガーデンパーティー
が行われたそうである。孫たちもこの一週間は異文化交流体験が出来て本当に楽しかったようである
さて紀元前598年第一回バビロン捕囚(現・イラク)は、南ユダ王国に侵攻し南ユダはあっけなく負けてしまうその際の戦利品
は全てバビロンへ持って行かれ、尚かつ「…全ての木工と鍛冶1万人を捕え…残った者は国の民の貧しい者のみであった…強くて良く戦う者をみな捕えてバビロンへ連れて行った」(列王記下24:14〜16)。その目的は、とりもなおさず労働力
としてである。
地図で見てみると南ユダ(現・イスラエル)〜バビロン(現・イラク)直線距離で約1,000Km。そこを徒歩🚶♀️
で行く以外にはないのである。なんらかの交通機関があるわけがない
しかも約50年間という長きに亘って異教の国で、生活、文化、言葉、食べ物
宗教その他が違う国で、いわば捕虜として働かせるのである。
そこで捕囚の民が「バビロン川のほとりに座り、シオンを思い出して涙😭を流した。我らはその中の柳に我らの琴
をかけた。我らをとりこにした者が、我らに歌🎵を求めたからである。我らを苦しめる者が楽しみにしようと我らにシオンの歌を一つ歌えと言った…」(詩篇137:1〜3)。この詩は「帰還」したい者のグループであろう。もう一つはバビロンに「居残り」組のグループである。
先ず前者から➡️彼らは異教国にあっても自分達のアイデンティティーをまっすぐに貫きいわゆる信仰熱心であり、主の律法を厳格に遵守する。つまり全てを奪われてしまったけれども、せめて信仰なりともという姿勢になって来る。先の詩篇137篇は酒盛りの席であろうと言われている。余興として「君達の讃美歌🎵とやらを歌え」とリクエストしたのであるがそれを拒否
したのである。これはしかし穏やかな事ではないであろう。なぜならば、いわば難民としてバビロンにおいてやっているという自負心がある
その弱い立場におかれている彼らに拒否されたという事はバビロンにとって面白くない事であろう。それに…「シオンを思い出して涙を😢流した」というフレーズであるがこれも面白く🈚️い事であろう。なぜならばいつまでも里ごころを引きずるのではなく、現在おかれているバビロンの水💦
を飲んで早く、この土地に馴染んでくれ
というメッセージでもあろう。その後、状況は変わりバビロンは、ペルシャ帝国によって滅ぼされクロス王👑により南ユダ王国の人達は「帰還」が赦され、自分達の最も気がかりになっていた、信仰の拠り所でもあるエルサレム神殿の再建に着手したのであった。
一方で後者➡️バビロンに「居残り」組は、これから1,000Kmも歩きで祖国まで帰るには体力的に自信がない。「居残り」組を選んだのは祖父母&孫が多かったであろう。親は体力的に自信もあるし、…苦渋の決断で子どもを祖父母に託して帰還するケースもあったろうし、また祖父母のみをバビロンに残して、子どもは親がおんぶして50年ぶりの祖国へ帰還した者もいたであろう。ただ50年ぶりに友達に会ってもお互いに顔が変わってしまってわからないであろうし…、住む家🏠も50年も留守をしていたら当然住める状況ではないはずである。色々と考えあぐねた末どうしても帰還する事に対しては二の足を踏んでしまうであろう。
そこであなたなら「帰還」したいかそれともバビロンに「居残り」組を選ぶか
模範解答は全くないのである。その土地に同化して生きるのもいいし、また自分が生まれた故郷に帰還して、そこで人生を終結させるのも一つの生き方である。いずれの道を選ぶにしてもインマヌエルの神がともないてくださるので、自信を持って
歩んで行こう。 高屋澄夫
🤳上→くちなしの花、香りを一日中でも嗅いでおきたい 😆
🤳下→500円玉ぐらいのトマトがやっとなった