3/31(日)はイースターで飯塚バプテスト教会では恒例の🎵コンサートを行った。また午後からは例年通り、花見🌸に行った幸い環境に恵まれていて、徒歩で2〜3分で行けるひまわり花見といっても私たちのグループは桜の下で、ただお弁当お弁当おにぎりを食べて帰って来るだけであるが、しかし“春の風を肌に浴びながら”郊外でいただくお弁当の味はまた格別であるたこ焼

 さて、「彼らの目👀が開けて」(ルカによる福音書24:31)!!という説教題をつけたが、聖書からそのまま取って来たものである。それに対して「彼らの目がさえぎられて」(ルカによる福音書24:16)!!この2つの言葉がキーワードとなっている。日時は、復活された日(日曜日)の午後から夕方にかけての出来事であろう!?イエスの弟子の2人はエルサレムからエマオ村へ向かっていた🚶‍♂️ランニング目的地エマオ村は、エルサレムの西7マイル(約11Km)ばかり離れたところにある。道々話す話題は、目下先ほど起きたばかりのイエスの復活である十字架途中からは復活されたイエスが2人の弟子の間に入って合計3人で旅をするランニング🚶‍♂️ランニングことになる。しかし2人の弟子たちは隣にいる人がイエスである事に全く気が付かないのである。もちろん物理的な肉眼はよく見える(➡︎視力は1.5爆笑?)のであるが、もう一つの霊的な目👀がふさがったままである。それを聖書は「…しかし彼らの眼は彼(イエス)を知り得ないようにふさがれていた」(岩波訳ルカによる福音書24:16)と表現してある。それにしても今の今までイエスの忠実な弟子として寝食を共にし、いつもイエスの素晴らしいメッセージを聞き、またイエスのなさる奇跡を目の当たり🎯にしていた弟子ともあろうはずの者が頭の中で繋がっていないのである。つまり心の眼がふさがったままである故にイエスが、ほんの隣りにおられても気が付かない状態でなのである。つまり頭の中で一元化の交通整理🚌の作業をする必要があるのであろう。


 あのロバート・ツンドの『エマオ』の、えもいえぬ美しい絵を見るにつけ3人の会話が弾み7マイルの道のりもアッという間⏰であったろう。そうこうしているうちに目的地であるエマオに辿り着いた。しかしイエスは「もっと先へと赴く様子であった」(ルカによる福音書24:28)。そこでイエスをしいて引き止めて、今日は遅いので一泊してから明日出かける事に決め、そこで夕食の時に「彼らの眼が開けそれが彼(イエス)である事を知った」(岩波訳ルカによる福音書24:31)。それにしてもイエスがたまたま泊まられる事になったから2人の目は開けたのであるが、もしイエスが急ぎの用があり泊まる余裕もなかった場合には、心の眼は閉じられたままであろう。つまり一瞬の出会いによって一生が決定づけられてしまう事がある!!それをギリシャ語では「カイロス」という。それに対して一般的な時間の流れを「クローノス」⏰という。どちらが価値があるかの問題ではなく「クローノス」⏰つまり日常の淡々とした生活を送る中でしか「カイロス」は発見できないのである。

 それは私の隣りにイエスがおられても、実際に出会っていながらもただそれはゆきずりの人でしかすぎなくなってしまうのであろう。ただそれのみで終結させてしまうのもたしかにいいのであるが、たまたま通りすがりの出会いからスタートさせて、もっと自分の方へとたぐり寄せていく中から、さらに多角的に物事を見ていく訓練を自分に課していきたい爆笑 高屋澄夫




🤳上➡︎『エマオ』へ向かう3人の後ろ姿

🤳下➡︎春の金閣寺を観に行く中々いい眺めダ一人はオヤツが気になる😆