左翼とリベラル、共通項は無責任 | 「永田町で考える地方のまちづくり 」

左翼とリベラル、共通項は無責任

  総選挙も大詰めを迎えているが、希望の党に対する期待が急速に萎んでいるのとは対照的に、立憲民主の健闘が明確になってきた。一つには共産党との選挙協力が功を奏したからであろう。
  この二つの政党は、政策も共通項が多く選挙協力が野合とまではいえまいが、少なくとも立憲民主の枝野代表はかつて、安全保障について集団的自衛権も認めるべきであるし多国籍軍に自衛隊が参加することも認めていた。それが、今回の総選挙の公約では全く影を潜めていて、共産党への忖度を強く印象付ける。
  立憲民主の場合、成立した平和安全法制が違憲であるというならば、それが誰にでもわかるような条文の体裁に改めるというのが、積極的な護憲論ではないかと私は考える。何人かの識者が指摘するように立憲とは憲法を作ることも含意しているはずなのだ。それが、憲法には指一本触れさせないとヒステリックに叫ぶ共産党とともに、何をしようというのか全く分からない。無責任だと非難されるのも仕方あるまい。
  共産党については、科学的社会主義を標榜していながら、政策が余りに情緒的で実現可能性には疑問符がいくつもつくようなものが多いし、その宣伝手法も往時の共産主義国家で見られたプロパガンダから脱し切れていない。つまり、共産党にとっては党勢が拡大することが目的であって、政策の実現は手段に過ぎない(だから実現しなくてよいと考えている)。本末転倒でありやはり無責任の謗りを免れまい。
  政権批判の受け皿は必要だし、そうでなければ政権交代は起きない。しかし、アメリカの大統領選挙後の世論動向や、イギリスのEU離脱国民投票後の世論動向を見ても、世論の失敗とも言うべき事態は発生する。何よりも「政権交代。」に踊らされた民主党政権下での三年間を思い出しても、政権批判の受け皿の土台に、政権交代可能な行政の継続性の担保が必要であることを我々国民は心に刻むべきである。
  無責任から安心も安全も生まれる訳はない。それは何かの錯覚か詐欺に遭っているのだ。立憲民主の誕生によって、政権を運営したことのあるリベラル政党ができたことは、長期的にみて共産党不要論の拡大につながる。立憲民主がそうした立場なり歴史的使命を自覚して共産党と選挙協力をしているのか、あるいは目前の選挙目当ての協定なのかは、この党がいつまで存続するかを見れば分かる。
  さあ、明後日は投開票日。
  貴方の大事な一票を無駄にしない賢明な選択をお願いしたい。