故人日、「ゆく川の水は絶えずしてしかももとの水にはあらず」と

いい、また、「行く者はかくのごときか昼夜をおかず」といいます。

川は存在しているように見えるが、実は、入れ替わり立ち代わり

その存在は常に一定ではないという道理を説いております。

 

今、まさに世の中が終るとしている時、皆さんはどうされますか?

生き残ろうと必死に何かするでしょうか?どうか教えてください。

 

しかし、世の中が本当に終わるとしたら、それが戦争(核戦争)

であれ、異常気象(大地震・火山の大噴火・隕石の衝突等々)

何であれ、今のような世の中がそのまま残るとは思えないの

です。

 

スマホもない、自動車もない、電車もない、それどころか電気・

ガス・水道のライフラインも、建物さえない。更に、もしかすると

隣人(生き残った人間)すら何人もい無い。

 

そんな中で生きていけるでしょうか?もちろん、従来どおりの生き

方ができないだけで、どうにか生きていける可能性がないわけで

はないかもしれませんが、まるで原始人のような弱肉強食のような

状態、もっといってしまえば、人間よりも強い生物に支配されるよう

な世界(否文明的世界)になっているのかもしれないのです。

 

逆に、いまAI技術は進化の一途をたどっております。もし、近い未来

AIが自ら考え自ら行動するようになった時、人類はどう評価される

でしょうか?地球上に存在する価値のある生物であると評価される

でしょうか?もう本当に近い未来の出来事であるかもしれないのです。

 

話が大きくなってしまいましたが、人は生きているから死んだ後の事

も心配になるのだと思います。以前、投稿した友人も、亡くなる直前

には少し変になっていたのではないかと考えています。だから、遺言

として「古文書の根拠も無しに」などと言っていたのでしょう。少し

具体例を述べます。埼玉県のある町の郷土史に「高遠城主飯島

民部少輔為次」という記載があったそうです。歴史的事実としては

その時点(天正十年)の高遠城城主(城将)は仁科五郎盛信であった

のです。彼(友人)の言うのは間違いではないかもしれません。しかし、

実は矛盾があるのです。彼は「古文書の根拠も無しに」と言ったそう

ですが、この「高遠城主飯島民部少輔為次」というのはきっと何らか

の古文書を根拠にしているはずなのです。つまり、教科書的記載と

は違いますが(そんな事は通常わかるから)、古文書にそう書いてある

から郷土史にそのように記載したとみる事もできるのです。

 

私は、古文書というものは残ってしまったから古文書なのであって、

その真実性は、どのような物(一級史料といわれる古文書含む)

であっても、内容は慎重に吟味されるべきものであると思っています。

著者等筆者の主観を離れて存在できない以上、必ず、知覚・記憶・

表現又は叙述の過程に誤りが混入する可能性があるからです。

 

少し唐突ですが、「遺言書」に誤りがあったらたいへんです。遺言者

の思ってもいなかった想定外の結果になるかもしれないからです。

現在の相続は財産相続を基本としますから、財産に関する法律

関係をよく整理し、個人の自由意思を根拠にして、私有財産の処分

について遺言するわけですが、必ずしも100%望みどおりになる

わけでもありません。しかし、私は、それでもできる限り本人の望み

どおりになるのが本人の幸せであろうと思っているのです。

 

さて、話を振り出しにもどして、もし、今、世界の終りがくるとして、

どうされますか?自己保存の欲求から、人は誰しも生き残ろうとする

それは間違いではないと思います。決して悪くないと思うのです。

しかし、人は易きに流れやすい(性悪説)、本当の善の善なるもの

とは何でしょうか?生き残るのが善、それとも?選択するのは皆さん

一人々々だと思うのです。