亡父の「遺言書」に関する投稿をかなりしてきましたが、今回は

私(飯嶋真一)と亡父親(飯嶋眞)の生前の関係を投稿してみたい

と思います。この点、決して「価値観の多様化」などという言葉では

到底説明できないものである事をまず断言させていただきます。

むしろ、前近代的な価値観の方がその感覚に近いものではないか

と私は今でも思っています。

 

 亡父親(飯嶋眞)にとって私(飯嶋真一)は長男(第一子・最初の

子供)でした。私が幼い頃からとても仲の悪い親子であったと私は

思っています。勿論、警察官であった父親は厳しくではありました

が子育て・養育してくださいました。ただ、とにかく幼い頃、保育所

・小学校・中学校・高校時代の全てにおいて、何かと対立して、

しょっちゅう大ゲンカになっていました。

 

 象徴的なものを二つあげます。①亡父は「おまえ(私・飯嶋真一)

は絶対に『大学』と名のつくところにはいかせない。」と激しく言って

いました。理由は二つで、自分(亡父・飯嶋眞)が大学卒でないこと

と、私(飯嶋真一)の小・中学校での成績が良くなかったことです。

②亡父は「おまえ(私・飯嶋真一)は絶対に『幹部』になれない。」と

とても激しく言っていました。理由は一つで、自分(亡父・飯嶋眞)

が警察官で幹部にならななかった・なれなかったことでした。個人的

にはおどろくべき事で、大学は自力(アルバイト等しながら夜学であ

っても)でもそれ(大卒)を認めないという厳格な態度でした。また、

幹部にられないというのも極めて断言的で例外無く・絶対にという

ものでした。

 

 結論的に、私は大卒の資格もとりましたし、幹部自衛官にもなり

ました。つまり、父親のいいつけに背いたわけです。これを世の人

は「お父さんに反抗したからそうなったのだ。」という人達がいます

が、全く違うと断言します。まず、第一に大学卒業資格については

私は若い頃(二十代・40年以上前)から、自分(私・飯嶋真一)が

年取った頃の若い連中(20歳以上年下)はきっと高学歴化して

大卒がほとんどになるだろう。だから、「その時点でおくれをとりた

くない・馬鹿にされたくない。」という考えがあったからです。また、

幹部自衛官についてもバブル景気の時局・時勢を考えれば、

今こそ立身出世のチャンスと思ったからでした。この二つに関して

は、ほぼズバリ的中したといってよいと思います。

 

 卒業証書・身分証明書の写しを父親に郵送しましたし、また、

平成10年、母親が亡くなって11年後、父親を自分が住んでいた

横浜市へ招待し、手打ちそばを食べてもらい。行きつけの居酒屋

で一緒にお酒を飲みました。翌日、三渓園を兼学し、お土産を

持たせて、父親は帰宅しました。正直、素直に、この時点では

たいへん喜んでおりました。

 

 平成11年1月、亡母(飯嶋千代子)の十三回忌を実施した際、

父親(飯嶋眞)は「これあるからな。」と言って、三兄弟に名宛の

「遺言書」のある事を教えてくれました。その概ね一年後の

平成12年4月20日、くも膜下出血のため父親は急死してしま

ったのです。そして、その「遺言書」は後妻の三千枝さんによって

破棄されてしまったという事なのです。前述しましたように、

亡父(飯嶋眞)と私(飯嶋真一)はかならずしも最初から仲が良い

わけではありませんでした。最晩年の頃、和解して仲が急に良く

なったといってもいいのです。三歳年下の弟(健士)は高原家へ

婿養子の約束をしていたようですが、ワンマンであった亡父は

そんな事(弟が婿養子にいく)など、私には一言もありません

でした。

 

 とにかく、亡父(飯嶋眞)の遺言書が読みたかった。今でも

できることなら見てみたい。生前、ずいぶん喧嘩も対立も

あったぶん、余計に最終的に父親がどう考えていたのかを

知りたい。思いは尽きないのです。