―――「闇の中にすすむ。さういつても、そこには闇だけがあつて、道のしるべはない。方角はどことも知れない。あへぐこと、もがくこと、のたうちまはること、そしてたたかふことがすすむ道をさがしてゐることになる。ここは地底の世界である。道に深山幽谷の起伏けはしく、めぐつて行くところは上にも下にともおぼえない。しかし、下にずり落ちるのではなくて、上に這ひのぼらうとすることに生きもののつよい意志がひそみ、したがつてげんにたどつてゐる行手の方はすべての障礙に反してかならず上に向ふといふたくましい錯覚があつた。錯覚にまかせきることはときに信念に引きずられることよりも正しい。生きものはめぐりつづける。ただ障礙は道の起伏ばかりではなかつた。山の隅谷の奥には至るところに惡鬼が棲み、みだりに秘境を侵す敵をやすやすと通さない。惡鬼は極惡の靈、死してなほ生者を呪ふ。生きながらこれとたたかふためには、こちらもまたおのづから化して異類のすがたとなる。」

(石川淳 『狂風記』より抜粋)

 

 

石川淳の小説、『狂風記』が雑誌「昴」に連載されたのは、1971年2月から1980年4月、昭和46年から55年のことである。つまりは1970年代という約10年間の時間を費やし旧字体・旧仮名遣いを用いて発表。初版はこれに沿って発行されている。現在、流通している文庫本は新字体・現代仮名遣い全て変更されているというが、妖しくも謎に満ち満ちた初版の文面を読み続けてゆくと、まるでそれは古文書の《石川文書―いしかわもんじょ》とでも名付けたい程の衝動に駆られていく。

 

 

1970年代とは、巷では大阪万博が終わり、日本を代表化する工業が躍進していく一方で廃棄物は増し、人びとの意識は外へ外へと向き、リンチという死によって学生運動は終焉を迎え、テレヴィの画面には超人ヒーローが悪を倒し、男女の交合の営みは映画館に見に行けるようになり、テクノロジーとの融合による文化が蔓延してゆき、古(いにしえ)の神々は近代の波に飲み込まれ消滅の危機を迎え……。

 

 

『狂風記』の主人公マゴとヒメはこの1970年代の時代性に逆行して、最後は上記の冥界へと墜ちる。そして、彼の手でヒトの、時代の輪廻を断ち切り現世へと戻る。見方を変えれば、この小説は死と再生の文書なのである。

 

 

さて、私も、本題へと戻りましょうか。

 

 

先日、鎌倉の銭洗弁天へ詣でた際のこと。ここは、本々は相馬氏の末社であったことを知って以来、新たな気持ちで参拝したいと思っていた。鎌倉までの物理的な距離は近いくせに、本来の出無精も重なりおっくうがっていたが、知人に会う機会ができたので、これ幸いと出向いてみた。

 

 

御存知ない方のために説明すると、相馬氏は平将門の子孫といわれている。このあたりは歴史学者の認識も諸説入り乱れてはいるのだが、将門と聞くと「ソレイケ・ヤレイケのマサカド・ホイホイ」の私は餌に釣られて何がなんでも動かなければ、という焦りにも似た心持ちとなる。

 

 

 

 

日曜日ということもあって、銭洗弁天には老若男女の善人が御利益を求めて大勢やって来ていた。そして、ここに、御利益を求めない一人(私)はこの参道にある伝説を重ねていた。

 

 

エレウシスの秘儀。

 

 

 

 

勿論、古代ギリシャの神々の秘教と日本の神仏習合が全く同じである、と決め付ける訳にはいかないが、祀られている宇賀神や蛇神信仰は農耕、特に穀物に関する民間信仰と繋がっていたといわれている。これは、ユング心理学でいうところの集合的無意識に近い感覚なのかもしれない。

 

 

冥界の王ハデスに誘拐された処女ペルセフォネ(一説には母デメテルとの一卵性母子)は、闇の世界にて籠り、王を受け入れることにより、冥界の女王となり再生する。それは土に埋められていた種が新たな生としての芽吹きを迎えるまでの、葛藤と苦悩を伴うが如く。普遍的なる過程は時に神話を構築する。

 

 

 

 

―――「なんぢら、たしかに聞け。この地底の國は怨靈、イチノベノオシハノミコのしろしめされるところだ。ミコはやくこの土に落ちさせたまへば、すなはち天文に異變おこつて、九曜のうち七曜のほかの星二つ、またしたがつて落ちて地下にかくれたぞ。この一對の男星女星こそ、ミコはじめ御一門の怨靈の宿らせたまふ星とおもへ。一類その以下、およそ世に怨みを存ずるものは、代代おん供につづいて、みなここにこもる。されば地上にあつては、このかくれた二曜について、天文博士の勘文にもその名さへ傳はらず、いかに鏡の玉を磨かうと、その在りどころは寫らぬて。二曜すでに落ち來つて、地底はじめて光をえた。この闇の國土をほのかにもたのもしく黒光りに照らすのは、かの二つ星のはたらきよ。すなはち、ミコの威徳のおんたまもの、今なほなんぢらにもおよぶ。この恩澤をわすれるな。」

(石川淳 『狂風記』より)

 

 

平将門もその子孫の一族も、家紋としているのは『九曜紋』である。妙見信仰や龍神信仰を基にしたこの紋に、“石川文書”は何を伝えようとしているのか。

 

 

洞窟の外れに、訪れる人も疎らな碑を見つけた。それは弁財天を彫り浮かび上がらせた巖である。とぐろを巻いた蛇の身体に、女性の、弁天=サラスヴァティーの頭部を持している。これもフロイト的な見方をすれば、蛇は男根となる。ファルスの上に在る女顔。両性具有とはまた無性へも中性へも変化が可能だ。それまでの自己を捨て去る様々な変貌とは、かくれた二曜の、つまりはお互いの持つ《対等なる一対の日と月》の交換式が必要なのである。これは時空を超えた先の、異なる生(性)を持つ、男女の乞い(恋)の神話なかもしれない。

 

 

 

 

 

弁財天を詠む

 

 

導くや先に来たりし吾が背子の護りとなれやと蛇神(ナーガ)に祈りて

(るうの)

 

(みちびくやさきにきたりしわがせこのもりとなれやとなーがにいのりて)

 

 

―――「千年前の世界に立ちかへるとは、千年後の世界の幕をあけるにひとしい。地の底の一日一夜はわづか十年をもつて數ふべからず。千年後とはすなはち今のことよ。」

(石川淳 『狂風記』より)

 

 

 鎌倉市八坂大神(相馬天王)