炭酸飲料のコマーシャルは、「青春」とリンクしていることが多いようだけど、
「なるほどなーたしかになーCMプランナーというのはさすが見識が高いなー」
と、ふと新しい発見をしたように思った。

というのは、前述の中野翠さんの著書『あのころ、早稲田で』を読んだのち、ふと浮かんだ言葉が
「気の抜けた炭酸水」
だったもので。

悪口や批判と取られると困るのですが。
開栓して時間が経って、炭酸がほとんど抜けてしまったジュース、意外とほっとするおいしさがありませんか?
炭酸のヒリヒリしたのど越しがなくなったことで、マイルドに、より甘く感じられる。

「炭酸飲料が苦手」という人の話を聞いて、夏場は水も炭酸水を選んで飲んでいた私はびっくりしたのだけど、たしかにあののど越しは、スカッと爽やかと言えばそうだけど、時によって「こんなものは要らない」「なんか疲れる」という異物感があるかもしれない。
そしてあの爽快なヒリヒリは、時によっては、無数の微細な針で刺されているような痛みに感じられるかもしれない。

そうか、そういう二面性も「青春」に通じるんだなー。

何が書きたかったかというと、同じエピソードでも昔の中野さんの文章にはまだ青春の「ヒリヒリした痛み」が感じられて、読んでいるこちらも青春からそんなに離れていなかったこともあって、もっと切実にその痛みを感じ取って共感していたように思う。
(私が中野さんの本を読み始めたのは20代半ばだったので、学生時代よりも、それ以降のほうに強く共感していたんだけれど)

歳を取るということは、炭酸水からだんだん気が抜けていくようなものなのかなー
などと思った次第です。

炭酸水からだんだん気が抜けていくように、
ヒリヒリした記憶も時が経つにつれてマイルドに、
最期には、ほのかな甘味だけが舌に残る...
のかも?