リオオリンピックにでの、様々な情熱のほとばしりを目の当たりにして感銘を受ける毎日ですが、
さらに情熱について考えさせられる映画DVDを2本観た。
それは
『バクマン。』と『セッション』
そういえば面白そうと思っていたのに映画館では観逃していたわと思って、久々にレンタルしてみたのだった。

続けて観てみると、この2本は構造的に似ているなーと思った。
かたや週刊少年ジャンプのアンケート至上主義、かたや鬼教授フレッシャーの頭の中にある理想の演奏。絶対的かつ理不尽ともいえる評価基準に翻弄される青年、という構図。
翻弄されながらも、彼らはそこに食らいつき、大きな代償を払いつつも、ついには自分のリミッターを振り切り、それなしでは辿り着けなかったであろう境地に昇華するのであった。

彼らの情熱に圧倒され憧れさえしつつも、でもやっぱり情熱の暴走は危険だよなと思う。
身体を壊すし、一歩間違えば人生をダメにする。
でも暴走するくらいの情熱がなければ、自分の限界は超えられないのかも。
そして、そのきっかけは常に外から理不尽に与えられるもので、自己満足では発動しないものなのかも。

ジャンプのキーワード「友情」「努力」「勝利」のうち、『セッション』には「友情」はないというのは大きな違いではあるけれど、『バクマン。』のクライマックス、ライバル新妻エイジが人物にペン入れしたページ、そのまま仕上げてたけど、あれって新妻エイジにも友情を認めたってことなのかなー。自分の作品のメイン部分に他人が手を入れられるのは許せないものだと原作者が言っていたとどこかに書いてあったけどなー。
『セッション』の疑問は、これもクライマックスの舞台で、フレッシャーが主人公ニーマンに楽譜を渡していなかったこと。あれってニーマンが密告したことへの復讐のため?自分の指揮する舞台をダメにしてまで?理想を追求するあまりの鬼っぷりだと思っていたので、そんな理由だったらちょっとがっかりなような。ニーマンの即興力、爆発力を引き出すための無意識の衝動があったと思いたい。無理があるかな・・・