状況証拠を集めると、大阪の陣で、家康は死んだ可能性がある。

 

大阪冬の陣は、戦線が膠着したけど、

寺の鐘の”国家安康”に難癖だから、ウクライナに攻め込むロシア兵みたいなもんで、

現場のやる気は上がらず。

 

大砲を、堀の対岸から天守閣に撃ち込んで、なんとか停戦にまでこぎつけた。

 

 

大阪夏の陣は、大阪城の堀を埋めたうえに大軍で攻めたから、家康は”勝つ気満々”だったけど、

油断して本陣の位置がバレバレになり、真田信繁に攻め込まれた。

 

それで討ち取られたという口伝が、近くに寺に残っているそう。

 

青森にあるキリストの墓と、一緒かもしれんけど。

 

 

その後で、影武者がバレバレで、地方藩の大名に”人を呪わば穴2つ”と言われたりとか、

1年後に”鯛の天ぷらにあたって死んだ”なんて、自虐的な理由にされるとか。

 

大坂の陣から家康の死まで、やる気のないエピソードが散見される。

 

マクロで見ると、こんな見方もできるって話。