意識について 2024 下 (2) | ihsotasathoのブログって言うほどでもないのですが

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twitterで書いたことをまとめたりしていましたが、最近は直接ココに書き込んだりしています

前回と今回の話を整合させる

前回の内容を要点ごとにおさらいしつつ、今回の話題との関係を説明します。

意識が磁気側であるとする部分

(前回)

脳を物理的に観測するだけでは、意識の内容を再現できません。

AIを駆使した推定の研究が進んでいますが、いずれにせよ意識の内容は、直接観測できない何かのようです。

磁気は予てより見えない事象であり、意識と対応づけられる有力な候補と考えました。

(今回の考察)

小さい現象だから見えないという考え方もあります。

磁気側と言っていたところを電磁作用に改め、さらに光量子よりも小さいスケールに刻まれているとしています。

その磁気側から電気側を推測した結果が意識であるとする部分

(前回)

我々が意識としていることは、磁気側から電気側を推測している結果ではないかと前回提起しました。

(今回の考察)

 磁気側という言い方はしておらず、電磁エネルギー循環構造や、電磁ポテンシャルという言い方をしています。

電磁を区別しない見方に改めていますので、磁気側から電気側を推測しているという言い方は適切ではありません。

脳が何らかの働きをした時の副産物として意識が生じているという解釈は変わっていないため、厳密には「脳の電磁作用が、外界を電気側の事象として推測している」という言い方に変わるものと思います。

ここで電気側としたのは、磁気は見えていないため認識から外れを得ないというだけで、物体が電磁作用から成っていることを否定するものではありません。

そして脳の電磁作用における推測は、方角と長さに対して行われており、光と同じ電磁作用における距離の捉え方と同じように扱われていると考える一方、意識の上でも1つの点に定まるのでは無く、確率のまま感じているとしています。

方角や長さについては最大限推測して絞っているものの確率のままで、その場所や範囲に感じている質感として確定する、という考え方です。

その推測では、イージーな推測とハードな推測が連動しているとする部分

(前回)

自分自身と自身を取り囲む環境を、正確に推測できることが、自分自身を正確に操作する上で必要になります。

その推測と推測のやり直しが、常に、脳と体で連動して行われていると考えられます。

そこで構成された物体としての推測の仕方がイージーな推測とするならば、このイージーな推測における神経細胞やそのネットワークの動きと、そこに生じる磁気の大きさが表裏一体である関係と併せ、磁気側でも推測に相当する何かが起こっていると考えられます。

そこから、意識される内容もまた、定まると考えました。

(公開の考察)

神経細胞の成り立ちを、電磁相互作用の観点から整理しました。

神経細胞を構成するにあたっては、光量子単位のエネルギー交換が物質(化合物、結晶、原子)の結合や分離で必要になっています。

これは電気側の立場に相当しますが、神経細胞に伝わる信号を見ると、この大きな粒度のエネルギーのやり取りまではしていないようでした。

また、神経細胞は経験を通じて神経細胞の繋がり方、つまり電気の流し方を変更していきます。

これは経験した内容を記録していると捉えることができます。

一方、意識される内容、つまり記憶は、磁気側を加えた、電磁作用の視点で考える必要があり、電気側よりも細かい偏差が、そこで表現されると仮定しました。

この偏差とは、化合物が化合物としてあり続けるエネルギー量を変えないが、それを構成する内容を変えることを、物理としてあり得そうな事象で説明したものなのですが、今はまだ概念的なものです。

 

(前回)

電気側(神経細胞)で推測が働くのに合わせ、電磁の観点でも推測が働くであろうと考えました。

そしてその推測のされ方が、電気側の推測と合わせて行われるといった感じでしたが、具体的ではありませんでした。

(今回の考察)

電磁側の推論は電磁ポテンシャルに溜まった偏差の集合(記憶の集合)の中の「位置(方角と長さ)」が変分原理=光が直進する原理に従って整理されるとしました。

この整理の仕方が磁気側(今は電磁側というべきだが)の推測の仕方ということに対応づきます。

その連動では、イージーな位置の問題とハードな位置の問題の解決が連動しているとする部分

(前回)

推測が効果的に行われる条件として、観測対象(自他問わず、質感によらず)の位置の推測が、少なくとも重要だろうと前回考察しました。

(今回の考察)

位置が特別な質感である点を継承しています。

この位置の質感がどの質感にも付随することから、特別な質感で、これは電磁作用における基本的属性ではないかと考えます。

また推測については、検索器の働きの一部として行われると位置付けました。

そこでは偏差に対して、明晰さの向上、経路の集約、時間の遡りなどが影響して、電磁ポテンシャル内の偏差の集合を効率的に配置するような要請が生じ、最も空間を占めるサイズが小さくなる=偏差の始まりの場所への回帰ように配置されるのではないかと考察しました。

そのため今回の議論では、推測という限られた場合にとらわれない、検索(推測が含まれる)の範囲に拡張して論じたことになります。

 

以上で、前回のと今回の説明の整合を終わります。

 

締めくくりに、記録と記憶の違いについて改めて考え、記憶には極端な性質があることに触れて終わりにします。

 

神経細胞群の経路としての記録が、経験を通じて整えられていくことで、自分自身の体の理解や、環境の観測精度や、適応的な思考などが身につきます。

これは検索器から効果器への機能の変遷に対応します。

それと併せて、特定の形(色の差分の集まり)、特定の言葉(音の差分の集まり)などの記憶も、神経回路網の記録という形で整えられていきます。

これは分類器の中で、より抽象的な分類をするような階層構造を想定することで説明できそうです。

一方で、さまざまな経路を経て集まってくるような神経細胞群は、特定の記憶は持たず、論理的思考する神経回路の記録を担うようになります。

これは、分類器から汎用器への経路と、汎用器内の経路の話に対応します。

 

論理的思考では、所詮は有限の神経回路網の経路をなぞる活動でしか無いはずですが、それにも関わらず、有限を超えるような意識を起こす場合があります。

例えば、以下のような意識です。

 

真っ直ぐで無限に続く直線(ある2点を通る直線を果てまで伸ばす)

数字の個々の値を記憶できないにも関わらず無限に数字の桁がある状態を感じる(無理数があると理解する)

 

動いていないものを動いているのと錯覚するように、これも記憶の参照の仕方から生じた錯覚のうちの1つかもしれませんし、意識が働く時に行われるであろう変分原理が適用された結果そうなることがあるということかもしれませんが、有限の物理構造である神経細胞が、記憶したそれを組み合わせることで、無限に感じられる何かを得られるとは、不思議なことです。

 

何か似たようなことがないかと思い浮かべると、例えば、鏡が2枚あれば互いに合わせることで、無限の繰り返しを表現させることができます。

これと同じようなことを、特定の神経回路の記憶と、記号や形の記憶の組み合わせから、変分原理の性質も手伝って?実現できるのかもしれませんが、今回はここまでといたします。

 

余談(以下は未記載にするかも)

自分を意識することと自分とは何かについて

自分を感じる意識は、自分と自分以外を見分けるために、過去から構築された神経回路の記録と、それによってその時の今に確認した自分の何某かを意識することで成立する、自分に対する記録や記憶の総体でしょう。

 

ここでの記憶は、自分とそれ以外を無意識下で区別する、神経回路の記録の駆動により、呼び起こされていると考えます。

自分を記憶から意識するという意味では、体に関する記憶(視覚や通じて得られる形や動きの影響が大きく、平衡覚や第一次感覚野の影響は小さいと思われる)や、自らの声、内言による自らの説明などもあります。

 

神経回路の記録と記憶の構築は、その人がどのような環境で生まれ、育ってきたかに依存して人それぞれに仕上がりますし、生きている限り変わり続けます。

その人がどの記録や記憶を使って自分自身を感じているのか、定義しようとしているかという点においても、人それぞれ、その時々になってしまうでしょう。

自分の定義を全ての人で同じとすることの難しさが、ここにはあります。

(分人という考え方もありますし)(参考:分人主義:https://dividualism.k-hirano.com/)

自分とは何かという問いへの答えは、あってないようなものです。

自分をどのように意識するかをどのような仕組みから実現しているかを説明できても、その仕組みを使ってその人が今まで生きてきた結果、自分をどのように意識するようになったかは、その人の勝手でしかありません。

その人はその人で見つけねばならず、他の人は他の人なりの方法で見つけるでしょう。

それでも、自分と他人で「自分」の定義を合わせたければ、常に会話し、お互いの経緯を事細かに確認し合う姿勢が求められます。

自由意志について

生まれを自ら選択できない時点でそもそも不自由確定であるため、自由意志を問うのはおかしな話かもしれません。

生後も、意思を持って行動してきてように見えて、多くの行動を無意識にこなしていたりします。

脳を見てきても、無意識に駆動する神経細胞の記録を介して意識は生じており、そこにも自由さを見出せません。

 

それは脳というものを観測してしまったが故に起こった不慮の事故ですが(脳を見なければ自由意志は確かに存在する!)、そうである以上、自由を求めて、自由を再定義していく必要を感じます。

我々はなんらか、自由であることを望みます。

 

この自由とはつまり、理不尽な生まれも含め、それまでの自分を否定したり忘れたりする意味や、今の自分よりも相対的に自由になるよう振る舞うことを「自由意志」と呼ぶのだろうと思うようになってきています。

絶対的に見たら不自由でしかないが、今の不自由から不自由さを減らす、相対的な自由であれば、常に求めることができます。

不自由を理解したからこそできる意味の自由を求めるのです。

変分原理がわかっていれば、あえてその変分原理から外れたことをすればいいのです。

(まだ見えていない部分に別の変分原理が糸を引いているのでしょうが、知らなければ自由は確かに存在します)

 

しかしながら注意せねばならないのは、自由と幸福は別物ということです。

自由だからこその不幸や、不自由だからこその幸福というものが存在します。

(何を幸福に感じるかも、人が進化してきた過程の中で仕組まれたことですけれども)

 

2024年6月 意識について 2024 下 (2)