意識について 2024 中 (2) | ihsotasathoのブログって言うほどでもないのですが

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twitterで書いたことをまとめたりしていましたが、最近は直接ココに書き込んだりしています

次に、出力系に着目します。

まずは、発話です。

 

発話は、口の周りの運動が伴います。

運動はどの運動においてもそうですが、動く前にどのように動かすかといった計画が求められます。

ブローカ野は発話においてそういった機能の一部を提供していると考えられます。

 

伴奏に沿って歌う場合も同様です。

伴奏を聞いてから口の準備をするのでは遅すぎます。

伴奏の内容をあらかじめ記録しておき、あるいは伴奏の中にあるヒント(拍子やコード進行)を使って、実際に伴奏が流れる前の段階からあらゆる筋肉の動き(これも変化分の組み合わせ=それに対応する神経細胞の活動の連なり)を準備し、タイミングを合わせて動かすための時間差を逆算し、動かし始める必要があります。

歌として成立した形で意識できるようにするために、演奏と歌が合うように、神経細胞の回路そのものにその差の記録を残す必要があります。

 

こうした発話や歌唱に見られるように、動作を伴う場合は、体をどのように動かすべきかわかっている必要があります。

 

前回の記事にも記載しましたが、生まれた時から常に体の状態を推測しては調整してを繰り返す形で、自分の体で何ができるかが、確認され、その確認結果に基づいて体が活用できるようになると考えています。

体の状態は、肌からの圧力や温度の感覚、三半規管からの平衡感覚、体の形状を視覚から把握できるまで成長したのであれば視覚からも、体の状態を知り、それらを現状として次やその次の行動を決めていくようになります。

結果として、体の多くの動きは意識が伴わず、ほとんどが目的を据えると現在の状態からそこへ向かうための最善の動きが(過去の学習に基づいて)生成され、動きます。

これは、過去には意識していたことを、今は意識しなくてもできるようになったということでもあるかもしれないため、単に意識していないと一言で片付けるよりは、過去の意識を無意識に利用しているというような言い回しのほうがいいのかもしれません。

この自動的な動きの多くは小脳で担われていると考えられています。

 

 

 

体の理解ができると、今の状態と目的が入力となり、目的達成のため何をどう動かすかが、出力されます。

この目的の提示と、目的達成に向けた動作の生成という課題が繰り返されます。

目的の提示はおそらく大脳や大脳辺縁系が担い、今の状態から最善の動作で目的に向かって動かす部分を小脳が担っているのではないかと、考えています。

(そうであると断言したような記事や、それを証明したような記事は今のところ見つかっていないのですが)

 

人は、生まれた当時、目的と運動が正しく組み合わせられておらず、自ら動くことを通じて学習します。

感覚を通じて、間違いを認識し、少しずつずらしながら正していき、目的と出力が徐々に合うようになると考えられます。

そして日常的な動作であれば、意識の確認を介さずとも、目的から適切な行動が行えるようになるのでしょう。

これは神経回路への記録と捉えます。

 

話を戻すと、この体の理解は、発話や歌唱でも活かされていると考えます。

発してみて、間違っていれば次の動かし方を試し、確認する。

それを繰り返して語り方や歌い方を身につけていきます。

そして身についた時、特に細かく意識せずとも、語りたい目的を思い浮かべるだけで、話ができ、歌えるようになるのです。

 

こうした発話の記録から、内言についても説明できるかもしれません。

つまり、内言は、発話のために体に向けて記録を行使するのではなく、聞き取った言葉の記憶を残した経路に向け、記録を行使するという解釈です。

聴覚の記憶に内部から信号を送ることで、実際に口で発言していないのに意識の中で自分の言葉を発して聞き取るような内言を意識できるようになっていると考えます。

 

 

次に、論理的思考についてです。

 

発話できるようになった頃には文法も整います。

文法に至るためには、単語から単語への変化分を記憶する神経細胞の中に、適切に抽象的された神経細胞群(名詞を表す単語群から動詞を表す単語群への変化分を記憶)が準備できた場合に現れると考えられます。

 

文法の獲得は論理的思考の獲得にも通じると考えています。

論理を使う思考では、五感などを通じ直接感じた事柄を思い出すのではなく、それら感じられた総体に、一つの記号なり役割を別物として与え、その与えたものを記憶し、それを繰り返し使うことが必要になっていると考えています。

名詞や代名詞の一部が、論理思考上の記号を担い、動詞などの他の品詞の一部が関数や関係性の理解を担います。

 

論理思考は、目的を達するために、体を動かす前に動かし方を試しながら組み立てる作業の派生ではないかと考えられます。

つまり実際に動かさないが、内言の範囲で、記号を置き換えながら、目的に近づくか否か、確認しているとも言えます。

こうした論理的思考自体も、回数を重ねると神経回路の記録に移っていくと考えられ、こうなると意識せずに論理的な振る舞いもできるようになると考えられます。

つまり論理的思考は、体の運動の派生ではあるが、整った論理が体の動きにも影響を及ぼすようにもあるといった考え方です。

いずれにしても、そういた記憶を論理思考として働かせる部位として前頭前野が見出されています。

この部位から、受容器に近い経路への投射が記憶を呼び出す役割を果たしているのではないかと考えられます。

 

また、言語として獲得した記憶を使う場合を説明しましたが、思考は言語だけで行われるわけではなく、形や動きの組み合わせた記憶を使う場合もあります。

 

 

2024年6月 意識について 2024 中 (2)