聖書の最後に記されている黙示録ついて、
これまでも、
慕わしさや力強さ、慰められたり、
希望を持ったりした。
個人の方の講開説教や、釈義等も
他の一般の他の本?に近い読み進み方で、
何冊かで読んでいた。
時間をかけて、いつか、
御ことばとしてしっかりと真正面から取り組み、教えられたいと願っていたが、
今、叶えられて、本当に感謝だ。
2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる──
2:2 わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。 また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。
2:4 けれども、あなたには責めるべきことがある。
あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。
そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く
2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。
2:7勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』
黙示録に名前の上がっているアジアのこの七つの教会は、当時の実際にあった教会だし、
又、主がおられるそれぞれの教会の時代の型であり、さらには、教会が持つそれぞれの特質の型だ。
教会とは、勿論可視的な建物の事ではない。
教会との表現は、主に救われ集められた者、私たち一人ひとりのことだ。
「初めの愛」から離れてしまった」と、
主イエス様に、
今、私は言われている。
生きる希望も意味も全く失っていた時分、
主なる神は、
御存在を示し、御計画のなかに、
私を滅びから救ってくださり、
主にあって生きる者としてくださった。
ヨハネの福音書
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、主だけが、
自分の理解者であり、支えてくださる方であつた。
けれども、いつか自分へ
の見方を誤った。
自分が頑張ったから、
ここまで生きてきたのだと。
感謝することを忘れていた。
私たちのこの生命は、
この目に見える地球や宇宙で
単に、
長らえるだけであつてはならない。
今日の日、
あの当時の日に立ち帰り、
一切の傲慢な思いを
神の前に告白して、
この粗末な小さく弱き者に、
生きる力と希望と喜びを賜わったことに、
心からの感謝を捧げたい。
22:20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。