岡潔の思想514【情は液体】
【22】 情は液体
流されるもなにも、情は液体のようなもの。だから知のようなわけには出来ない。
自分だけが幸福になろうとしても、これは出来ない。
ここまでは自分で、そこからはそうじゃないという境い目、これは出来ないんです。情というのは、真情としても、なおそういうものです。宇宙の存在あるは情あるによる。
なお、外界が時間空間の中にあるとみえるのは、前頭葉あるによるんですよ。この鏡に映すと、総て時間空間というふうなものの中のことになってしまう。これ、前頭葉に映した影です。
カントなんか、時間空間は先験観念である、自分はこれなしには考えられないと云っている。西洋人は前頭葉の世界のことしか考えられないんです。
ともかく、前頭葉が働いてわかるんだったら意識を通す。ところが日本人は、意識を通さないでわかるという雰囲気の中にだいたい住んでいる。
秋風も、時雨のもの懐かしさも、みな意識を通しゃしません。
座の空気がわかるっていうのは、意識を通しません。その座の空気がわかるっていうようなこと、日本人はすぐに云います。西洋人、云わんでしょう。これは意識を通さずにわかる。西洋人にはわからない。
横山賢二さんの【解説】が読めます。
※典比古
本章は「情は液体である」という一言に尽きるのですが、その内実は極めて深い文明論になっています!
境界を引くことができない、部分と全体を分けることができない、この性質こそが情の本質であり、ここから「自分だけ幸福になることはできない」という岡さんの断言が導かれています。
ここで想起されるのが、『空気の研究』の著者である山本七平は、日本人の「空気を読む」性質を「臨在感的把握」と呼び、その功罪を指摘している。
しかし岡さんのいう「座の空気がわかる」は、それとは次元が異なります。
山本のいう「空気」は、対象への感情移入(臨在感的把握)が前頭葉的に固定されたものであり、時にそれが絶対化される危険を孕みます。
これに対して岡さんのいう「情」は、対象と自他の区別を越えて直接に響き合う働きであり、意識を通さずに成立するものであるのです。
すなわち前者は「前頭葉の空気」であり、後者は「真情の共鳴」ということです。
もしイマヌエル・カントにこの視点を示したならば、「時間・空間は先験的形式である」という彼の思想は、さらに一歩踏み込んだ転回を迫られたのではないでしょうか。
岡さんのいう「情は液体」という比喩は、単なる比喩ではなく、存在と認識のあり方そのものを根底から問い直す言葉として受け取るべきなのです。
情は境界を持たない。だから世界を分けない。
ここがこの章の核心です。
大岡越前祭のパレード 撮影 19日(日)

