最悪の日本語としての「仕分け」、「赤ちゃんポスト」
最近、特に、思っている。
近来、稀に見るほど汚い言葉が定着していると・・・。
代表格は、「仕分け」と「赤ちゃんポスト」の2つである。
「仕分け」=ゴミの分別のように聞こえてしまう。
仕分けされたものは「ゴミ」同然のような印象を受ける。
ノーベル化学賞学者の野依先生が、仕分け人に「歴史という法廷に立つ覚悟があるのか?」という言葉を投げつけたらしい。
一見、すばらしい、美しい表現のように見える。喝采を叫ぶ科学者もいる。
しかし、この文学的表現は、必ずしも「教養人」ではない、現世利益主義の彼らに「格好の突っ込みどころ」を与える。
「50年先、100年先の評価なんて、私達には?だ。先生もでしょう。
人は、皆、死ぬ。今、この時が重要。今の景気情況をこそ考慮し、なにとぞ、ご理解を」と。
あるいは・・・
「科学って、偉大な発明・発見でも、塗り替えられていくわけで、ある種、壮大な無駄(と少々の成功)の積み重ね。50年後、100年後に、今回の政治判断が正しかったか、なんて、結局、時の歴史家でもわからない・・・。今回、科学技術予算を全部廃止することは無いし、できる限りの考慮はしますが、こういう世情ですし、ご配慮とご理解を」と。
さて、たぶん、表現は違えども、こんなふうに、言われますから(思われてますから)、それに応じたプレゼン、さすがは偉い先生という格調と愛のあるプレゼンをお願いしたかったものだ。
「俺達は、エリートだから、海外との競争に勝って、この国を支えてやるんだから、金よこせ」というような気持ちで望むからダメなんですよ。一般からも反感買うよ・・・。
一言でもいいから、代表的な科学者の方も、世情を考慮したうえでの発言を入れて論を組み立てたら?・・・と思いましたが・・・。結局、今回、一般からも、結局は、あんまり「科学技術の価値」を理解されず、あげくに、「反感」買われて、お金も少々減らされると・・・。
また、「赤ちゃんポスト」・・・。
こんな言葉を平然と大新聞が使うのはどうか?
人の命をどう、思っているのかが、よくわかる。
どいつも、こいつも・・・。