今年の箱根駅伝、青山学院大学が、大会新記録で2年ぶり7度目の総合優勝を果たしました。勝利にはいくつもの要因がありますが、監督の原晋(はら すすむ)さんによると、選手をスカウトするときに「心根のいいヤツ」に声をかけることがその一つだそうです。

原監督には痛い経験があるそうです。

……監督就任3年目のとき、チームの成績が伸び悩んでいたため、原さんはタイムが良いだけの選手をスカウトすることに決めたそうです。このとき、獲得するつもりだった選手の指導者から警告されました。「原君、あんな選手をとってはいけない。部がダメになるぞ」……かえって意地になってしまった原さんは、その選手を選手にしてしまいました。

ところが、その選手が寮に入るや否や、チーム内で抜群のタイムを出す反面、乱れた生活でチーム内をかき回したのです。しかし、実力が抜きんでているだけに、ほかの部員は遠巻きに彼を傍観するしかありません。おそらく、その選手は監督の叱責にも耳を貸すことなく、自分さえ良ければいいと思っていたのでしょう。結局、チームの成績は落ち込み、陸上部は空中分解の危機に陥って、その部員は辞めてしまったのだそうです。

以来原さんは、監督の指導に従順で、ほかの人と協調しながら行動できる「心根のいいヤツ」をとることに決めたそうです。そのほうが、短期的な伸びは小さくても、長い目で見ると組織全体の力を伸ばすことにつながると確信したのだとか。それが現在の青山学院の実力につながっているそうです。

 

クリスチャンライフも、教会も同じです。

「心根のいいヤツ」を聖書のことばで言い換えるなら、「砕かれた者」=自己主張するよりも「神様、どうぞご自由に」と、心の底から神様に申し上げることができる人、神様に信頼しきっている人、神様の指導に従順な人と言えるでしょう。「砕かれた者」は、神様とのタテの関係が健全です。自分が「良い羊飼い」に愛されている羊であるという自覚があります。神様とのタテの関係が健全なら、牧師との関係、他の信徒との関係も健全です。


どんなに人に伝道する実力があり、人々を教会に連れて来る人がいたとしても、その人が牧師の指導に従わず、常習的に自分勝手な働きを教会の中でするのなら、その人は「砕かれた者」とは到底言えません。そういう人は、自分のために神様と教会を利用しているだけです。

「砕かれた者」が主の働きを担い、教会を形成していくべきだと私は信じます。そして「砕かれた者」=自分が「良い羊飼い」に愛されている羊であるという自覚がある者だけが、本当の意味で「私は乏しいことがありません」と言えるのだと信じます。

(実際の週報コラムの文章に加筆しました。)