このコラムを執筆しているただ今3月11日午後2時。各局横並びで震災特番を組んでいます。

実は今回初めて津波の映像をじっくりと見ました。(独身時代の加奈は、テレビの前に座り込んで動けなくなり、何時間もぼけ~っとテレビを見て時間を無駄にしてしまったり、深夜のテレビショッピングで衝動買いをする等々さまざまなことがあり、テレビが壊れたのをきっかけにテレビを処分しました。ですので、6年前の3.11の情報はラジオで得ていました)ある方が「リアルタイムで見なくてよかったわよ。動けなくなるから」はい。この言葉の通りでした(-_-;)。6年たった今でよかったと思います。これだけ時間がたっても津波の恐ろしさに体がこわばって動けなくなりましたから。

6年前の3月11日、加奈にとって、この日は東京神学校の年度末最後の授業でした。尾山令仁先生が淡々と講義されているところに突然ユサユサ、グラグラ……あまりにひどい揺れで、いつ天井が落ちてくるのか、窓が壊れてガラスが飛んでくるのか……これが止まったら私は間違いなく天国にいる……と思いました。でも尾山先生は「この建物は震度8でもビクともしません」と、泰然自若としておられます。でも、あまりに揺れが長く続くので「長いですね。祈りましょう」と、地震のために皆で心を合わせて祈りました。揺れが収まった後、私も含め皆さん電車が止まってしまい、帰ることができませんでした。そこで、ラジオで情報を得ながら祈祷会をしていました。その時にある学生が
「僕たち使命があるからこの地上に残されたんだよね」と話してくれたことが非常に印象に残っています。

「使命があるからこの地上に残された」……神様の使命って何でしょうか? 2年位前からでしょうか、この教会で「自分教」という言葉を使うようになりました。神様でなく自分中心に生きるクリスチャンの信仰について、啓と加奈が話しているときに生まれてきた造語です。自分教の方の使命と神様からの使命の違いとは何でしょうか? 神様からの使命がある限り、人は死なない……大きな揺れの中で泰然自若としておられた尾山先生を思い出して、そのような思いが来ました。3月11日を昨日再び迎えて、神様からの使命は何かを考えさせられています。(かな)