あくまで私見です。

才能の有無をよく問われるし、話にもなる。
才能は神から与えられりしものと私は思う。
それは大から小まで生まれたときから与えられているものだが全く見えないもの。しかも、千差万別どんな分野に才能が有るかは当の本人も全くわからない。

資質は親や教師などの指導者が導き植えつけていくものと思っている。
これを植えつけられなければ才能は現れてこない。
色々な資質を植えていく段階でその人の才能が現れてくる。絵画、音楽、スポーツ、科学、文学などなど様々、さらにその分野で細かく分かれる。

その才能、障がいを持つ子にもそれは才能の一つなのかもしれない。
私の親友で軽度のダウン症の男の子、中学卒業後日本には受け入れる教育機関もないので御両親の決断でニュージーランドに留学している。
彼はピアノを学びに来た。お姉ちゃんが習っていた優しい先生に。
少しづつは上達するのだが、この症状の特徴で指先がスムースに動きにくい。その先生は彼のリズム感と耳のよさでヴァイオリンはどうかと薦めた。
そしてピアノからヴァイオリンに変わった。その先生も優しく彼を指導してきた。
習っていたピアノの先生が突然の病で亡くなられたとき、彼は号泣した。
中学卒業の時、最後のレッスンでお母さんも来られ、彼はそこで演奏した。天使のような音で演奏、先生も「あんなきれいな音は私も出せない」とお母さんとともに涙した。
彼は人を優しくさせる才能があるのですね。

天才と呼べるものを才能というなら、ピアノを指導している先生達も才能はないといえる。
私もアメリカンフットボールなるスポーツで代表選手になったこともあるが、才能はない。
家内とミラノへ行ったとき、日曜日で小さな美術館しか空いておらず行ってみた、ある小さな静物画に目を奪われてしまった。作家を見たらカラバッジオ。「天才というのはこんなものだな」と家内に言った事がある。
ただ、私が曲がりなりにもあるレベルでプレーできたのもその競技の中で考えてプレーする資質を植えてもらったからだと思っている。
野球でもイチローや落合、王さんのような天才にはなろうとしても難しい。しかし、考える資質を与えれば一流にはなれる。

私の周りに天才というにふさわしい音楽家がいる。しかし、彼らは常に求道者のようでもある。
指導する側は生徒の才能を問うなかれ!
教える自らに才能はないと思い、教えながら自らの資質を植えていくことが必要。
全ての子供には天才への才能が秘められている。

しかし私には金持ちになる資質を植えつけられなかったことが悔しい。