数年前の事、馴染みのお寿司屋に行くと大きな声でしゃべっている人がいた。神戸市立の高校の校長とか。PTAの役員をしている馴染み客の奥さんが連れてきたらしい。
スポーツなどで有名になっている人物の名前を挙げてはたまたまその学校に在籍していた違う分野のスポーツ選手「あれも俺が教えていた」本人がある高校スポーツ協会の役員もしている事もあり他校の選手なのに「あれは俺が目をかけた選手」と言う。
勘違いはなはだしい。多分その人達は育てられたり指導された記憶が無いはず。
しかも学校の教師をしていたら、その中には犯罪を犯してしまった人物もいるはず。その人物を教えたとは口にしない。
個人的には腹立たしい人物でこんなのが校長かと唖然とした。

実は私もある大学のチームで監督をしていた経験がある。
2部のチームで、なかなか才能のある選手は来ないし、アメリカンフットボールなので高校時代の経験者など入部してこない。
そんな中でも非常に優れた選手に育つ者もいる。彼らは私が指導しなくても確実に上達していく資質を持った選手だったと今思う。

指導者として、優秀な子を自分が育てたと言い切るのは簡単だが、指導した子が100%優秀になったり、脱落していかないのであれば、私が育てたと言ってもよいと思う。
確かに指導者で育つ確率は異なることは事実。優劣はある。
それでも、監督していた頃を思い浮かべれば、あの時こう教えればよかったと反省する事は多い。
指導者は常に勉強し続けなければいけないし、その子を導く為の道標にならねばいけない。

今私の周りには音楽の指導者が大勢いる。
長くやればやるほど優秀な才能を持った子にめぐり会う事がある。そういった子はある意味誰が指導してもあるレベル以上になる確率の高い子だと思う。そいう子以外の子を如何に育てるのかを指導者として喜びを感じて欲しい。
育つ子と育てる子がいることを忘れずに。