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安楽死する兄 声を上げて泣いた妹 - Yahoo!ニュース

 

私は生きることを諦めた―― “安楽死”を選択した男性、耐え難い激痛の日々

声をあげ て泣く妹へ「強く生きて」

スイスのある施設のベッドに横たわったその男性は、40年にわたる生涯を自ら閉じ、旅立とうとしていた。枕元のスマートフォンからは、自身が最期に選んだ曲「ラ・リベルテ(自由を)」が流れている。医師は点滴に致死薬を投入し、その準備を終えた。

医師:「この病院に来た理由は何ですか」

男性:「安楽死するためです」

医師:「点滴を開けたら、何が起こるか理解していますか」

男性:「静かに眠りに入り、数分後に心臓が止まります」

医師:「そうです。あなたの心臓は止まって死にます」

男性:「はい」

四肢麻痺の男性は、鼻で点滴のストッパーを開けた。致死薬が体内に徐々に投入されていく。やがて、彼は永遠の眠りについた。つい先ほどまで、私に笑顔を見せて話してくれた男性が、わずか数分後に眠るようにして亡くなってしまう現実。目の前で展開された「死」を、私は現実として実感することができなかった。

■交通事故後の耐え難い痛み 「生きるのを諦めた」

「ボンジュール。ジュリアンです。初めまして、よろしく」。2022年6月、フランス南部ペルピニャンの病院に入院していたジュリアン・クレイさんは、初めて訪ねた私を笑顔で迎え入れてくれた。 市役所の職員として森林を管理する仕事をしていたクレイさんは、32歳の時に交通事故で脊髄を損傷し、首から下の自由を失った。慢性的な痛みに悩まされ、軽減するための手術を複数回受けたが、効果はない。膀胱を除去した手術後はさらなる痛みに襲われた。 「刺すような、燃えるような、電気ショックを受けているような痛みです。2,3日間続けて眠れずに一晩中、泣くこともあり、気が狂いそうになります」 同居する両親に何度も「殺してくれ」と頼んできたという。 「医者は痛みをとると約束したのに、できませんでした。私は生きることを諦めたのです

■安楽死のためスイスへ 移動後も激しい痛み

2022年7月、クレイさんは共にリハビリを続けてきた仲間たちに付き添われて、車でスイスに向かっていた。フランスでは安楽死が認められていないため、海外からの希望者も受け入れているスイスの団体を探し続けた。そして、2か月前にスイスのある団体がクレイさんの受け入れを決めたのだ。 ペルピニャンを発って11時間後、一行はスイスのバーゼルに到着した。 一夜明けてクレイさんの体調が急変した。長時間での移動に伴う疲労から高熱が出て、吐き気を催し、息も絶え絶えになっていく。呼吸不全が起きたため、看護師が腹部を突き上げ、気道を拡げる応急処置を行った。苦痛で顔を歪めたその表情は、痛みを背負いながら生きてきた9年の歳月の重さを私に感じさせた。

■安楽死へ厳格な審査 団体が定める4条件

翌日、体調を少し持ち直したクレイさんのもとに、安楽死団体「ライフサークル」の代表、エリカ・プライシック医師がやってきた。ライフサークルは、2011年に設立されたスイスの団体の1つで、海外からの希望者も受け入れている(現在は新規会員の受け入れを終了)。ここに会員登録しているクレイさんは、医師による審査の結果、許可が下りれば安楽死することができる。 ライフサークルが定めている安楽死の要件は「耐え難い苦痛」、「回復の見込みがない」、「治療の代替手段がない」、「明確な意思表示」の4つだ。「耐え難い苦痛」は肉体的な痛みである必要はなく、精神的な痛みも含まれる。プライシック医師は、クレイさんとの対面での審査や別の医師の意見も踏まえて、4つの要件を満たしていると判断し、安楽死を許可した。 「本当は安楽死よりも治してあげたいのだけど、治療の方法がありません」 そう話すプライシック医師に対し、クレイさんはこう答えた。 「私を死なせてくれるのが治療なのです」

■両親への心残り 声を上げて泣いた妹

安楽死の選択に迷いはないが、クレイさんは9年間、献身的に介護してくれた両親を残して旅立つことだけが心残りだった。父は高齢で末期がん、母は父の看病があるため、スイスまで来ることができない。2人は「フランスに安楽死法があれば、息子を看取ることができたのに」と悔やんでいたという。 クレイさんの胸には、両親と、4人兄妹の中でも最も可愛がっていた末妹の名前がタトゥーとして彫られている。その名前の下には「どんなに感謝しても感謝しきれない」というメッセージが入っていた。「一緒に旅立ちたいという思いから、タトゥーを入れました」 末妹のブランディーヌさんは、兄の反対を押し切り、家族の中で唯一人スイスまでやってきた。当初は兄の決断を「自分たちを捨てて旅立つ」と感じ、受け入れることができなかったが、次第に「利己的なのは自分であり、兄の決断を尊重しなければならない」と考えるようになったという。 ブランディーヌさんは平静を保とうと努めていたが、安楽死の許可が下りると堪えきれずに、椅子から立ち上がった。兄の方に向かっていき、抱きしめ、その胸に顔をうずめて声を上げて泣いた。

■安楽死当日 両親に告げた「愛している」

安楽死当日の朝を迎えた。前日は雹が降るほどの荒れた天気だったが、この日は嘘のように空が晴れ渡っていた。 誓約書への署名を終え、安楽死の準備が整う。ベッドに横たわったクレイさんは、共にリハビリをして励まし合ってきた仲間たち一人一人に対して、最後の別れの言葉を告げた。 フランスに残してきた両親とは、スマートフォンで最後のテレビ電話をつないだ。重い病気と高齢のために、スイスで息子を看取ることができなかった両親の無念さを、クレイさんは十分にわかっていた。

クレイさん:「もしもし。今、準備しているところ」 

父:「そうか」 

クレイさん:「さよならだね」 

父:「うん」 

最後の別れを前に、父は言葉を返すことが精一杯のようだった。 

クレイさん:「二人を本当に愛している」 

父:「うん。俺たちもだ」 

クレイさん:「さよなら」 

父:「さよなら」 

クレイさん:「本当に愛している」 

母:「私たちもよ」 

クレイさんは投げキッスを送り、両親に別れを告げた。

■安楽死の瞬間 目を閉じ、口ずさむ「自由を」

致死薬が点滴に投入された。スイスでは医師が患者に薬物を投与して、死に至らせる行為は禁止されているため、処方された致死薬を、患者本人が体内に取り込む必要がある。四肢麻痺のクレイさんは点滴のストッパーを自身の鼻で開けて安楽死することになる。 妹との別れの時が近づいていた。「大好きだよ。気をつけるんだよ」と、妹の行く末を心配する兄の涙が頬を伝う。クレイさんは妹にトラウマを残さないため、最後の瞬間だけは立ち合わないよう伝えていた。「愛しい妹よ。そろそろ逝かなければ。音楽を聴けるように準備してくれ。音楽を聴きながら死ねるように」 ブランディーヌさんがスマートフォンで音楽をかけて枕元に置く。流れたのは「ラ・リベルテ(自由を)」。クレイさんが苦しい闘病中に何度も聞いていた曲だ。兄妹は別れのキスを交わし、ブランディーヌさんは、振り返ることなく部屋を立ち去った。 ライフサークルのスタッフが、警察に提出するためのビデオを撮影する。プライシック医師によるクレイさんへの最後の質問が行われた。 

プライシック医師:「あなたの名前は」 

クレイさん:「ジュリアン・クレイ」 

プライシック医師:「この病院に来た理由は何ですか」 

クレイさん:「安楽死するためです」 

プライシック医師:「それがあなたの最後の願いならば、点滴のストッパーを開けてもいいですよ」 

クレイさんはそっと目を閉じ、「ラ・リベルテ」を噛みしめるようにして口ずさむ。そして、鼻でストッパーを開けた。致死薬が体内に投入されていく。2分後、「眠くなってきた」と呟き、小さないびきをかいた後、息を引き取った。

■「妹よ、強く生きろ」 安楽死した男性が残した生きる意味

安楽死を遂げてから1年。クレイさんの死は、スイスで看取った人たちに何を残したのか。2023年7月、私は再びフランスを訪ねた。 全身の筋肉が徐々に衰えていくALS患者のマリンさんは、闘病中のクレイさんと安楽死について、夜を徹して何度も語り合った。 最後の別れの際、クレイさんは「あきらめるな、生き続けろ、強くあれ。ここで人生が終わるわけではないのだから」という言葉を残してくれたという。マリンさんは「彼のアドバイスを聞き、私は最善を尽くして生きようと思っています」と話す。事故で腰から下の自由を失い、生きることに絶望していたキリアンさん。クレイさんは「絵が上手なお前の才能を活かせ」と、タトゥー彫り師になる道を勧めてくれた。兄貴分のクレイさんに贈ってもらった道具を大切そうに手に取り、私に見せてくれた。 「私が彫り師になって生きがいを持てるように、彼は自分の身体まで実験台として提供してくれました。『頭から足の先、全ての皮膚をお前のために使ってくれ』と。彼が亡くなった時に、自分はもっと頑張って生きなければと勇気づけられた気がします」クレイさんの末妹、ブランディーヌさんの自宅には、兄の写真立てが置かれ、花が添えられていた。私が訪ねたこの日の前日は、クレイさんが亡くなってからちょうど1年だった。 「兄の安楽死を受け入れることは難しいことでしたが、彼に残された唯一の選択肢だったと、1年経ってやっと思えるようになりました。そう思えるようになってから、四肢麻痺だった兄が元気に歩いている夢を見ることができたのです。私の心が少し落ち着きました。兄は私が強く生きて、幸せになることを、心から願っていました。幸せな人生を謳歌できるよう、私を見守ってほしい。私は兄と二人分、生きていくからです」

■取材を終えて

「自分のような1人の人間の死でも、日本人に安楽死を考えてもらえるきっかけになるのは嬉しいんだ。命が活かされることになるのだから。あんたに会えてよかった。しっかり伝えてくれよ」 最後の晩餐で、私に託してくれたクレイさんの思い。その時の彼の温かな眼差しは、今も私の心を捉えて離さないでいる。 私がクレイさんと共に過ごしたのはわずか5日間にすぎない。だが、フランスからスイスまでの車中を含め、非常に濃密な時間だった。彼は自身が生きた40年の命を精一杯、伝えようとしていたし、私もその命の輝きを一瞬たりとも逃すまい、と目を凝らし、耳を傾けた。いつしか、5歳年下の彼に対して、友情のような気持ちすら芽生えていたことを覚えている。「明日が彼との永遠の別れになるのか」。胸が張り裂ける思いをしながら、二人でピザを食べたことを思い出す。 クレイさんは幼い頃から、家の外を駆け回って遊ぶ元気な子どもだった。近所の家の郵便物を一か月間、全て抜き取って隠したり、カエルをテープに巻き付けて太陽にかざして眉間に皴が寄るかを実験したりするなど、いたずら好きの面もあり、その度に両親からこっぴどく叱られたという。森林を管理する仕事を選んだのも、山中を駆け巡って猟をできるのが楽しかったからだ。そんな彼が交通事故で四肢麻痺になり、自由を制限される生活を余儀なくされた苦しさは察するに余りある。 事故後は、なんとか生きる道を模索して懸命に努力してきた。立ちはだかったのは「痛み」という壁である。夜、眠ることができないのは、彼にとって「逃げる場がない」ことを意味した。 誤解なきように記しておきたいが、彼は「生きる」ことの尊さを信じていた。安易に安楽死を賛美することには加担しなくない、という思いが強くあった。その一方で、安楽死を選択せざるを得ないほどの痛みや苦しみを抱えた人がいるのに、自分事として捉えずに見て見ぬふりして法制化やそれに至る議論さえしない国や社会に憤りを感じていた。 「自分は痛みから安楽死を選択せざるを得なかったけど、お前たちには頑張って生きる道を模索してほしい」。それが愛する妹や友人へ残した最後のメッセージだった。

 

TBSテレビ「報道特集」記者:西村匡史

2003年入社以来「いのち」をテーマに追い続ける。社会部、NEWS23を経てロンドン特派員として安楽死を取材。