六、まとめ

 今回、八雲本陣に残されていた碁盤、碁笥、碁石、碁笥箱について、論文をまとめた。

18288月の服部因淑と18343月の幻庵因碩の署名があるが、この師弟揃っての署名のある碁盤というのは他にあまり例がないのではないだろうか。幻庵因碩の1834年の出雲国来訪は、手錢記念館収蔵の碁盤からも裏付けられる。このことから先に碁盤に署名した因淑も1828年に出雲国来訪があったのではないかと考えられる。1828年の因淑と1834年の幻庵因碩の出雲国来訪の詳細の解明は、今後の課題である。

また河北耕之助が製作した2種類の碁笥があり、専用の碁笥箱を有している。一つは瀧川常榮の依頼で製作した螺鈿細工のような修飾がされている碁笥であり、もう一つは老荘思想と黒白の対比を巧みに盛り込んだ日野資愛からの撰文を刻んだ碁笥である。この2種類の碁笥がどのような経緯で八雲本陣に存在しているのかは今後の課題である。

兵家である孫子と呉子とを踏まえた揮毫のある碁盤と、道家である老子と荘子とを盛り込んだ漢文を刻してある碁笥とは、元来それぞれ無関係な由来であると思われるが、八雲本陣においてそれらが合わせて存在していることに興味深いものがある。

 出雲国は江戸時代を通じて囲碁が盛んだったことが伝えられている、その反映の一つとして、出雲国の碁打ちや支援者を網羅した囲碁番付(弘化四年囲碁手合鑑、嘉永七年出雲国内囲碁番付)の存在がある。本論文でも、八雲本陣の他に、手錢記念館、出雲民藝館の関連物を引用したが、元来いずれも江戸時代の出雲国の各地域を代表する旧家であった。この他にも出雲国には多くの旧家が存在し、記念館などの施設として、それぞれの史料、収蔵品などが保管、公開されている。今後とも、こうした旧家の各施設で保管、公開されている史料、収蔵品などを、囲碁史の観点から再確認し、出雲国における囲碁での交流の実態を解明してゆきたいと思っている。

 最後に一般財団法人八雲本陣記念財団理事長木幡均氏(木幡家十六代当主)、日本棋院松江支部の岸本裕之氏、石碕修二氏、日本棋院出雲支部の西村悟氏の多大なるご協力をいただきましたこと、改めて厚く御礼申し上げます。

四、八雲本陣所蔵の碁笥、碁石

<1>碁笥、碁石、碁笥箱(Ⅰ)の概要

(1)碁笥(Ⅰ)の概要

 螺鈿細工のような模様がある碁笥で、周囲には蔓状の葉が蛇行した形でデザインされている。蓋は円の中央には四角、円、半円などの幾何学的な模様と獅子が、円の周囲には二つの蔓状の葉が向かい合って配されている。

 

(2)碁笥箱(Ⅰ)の概要

碁笥箱には、「河北耕之助房種ノ作/弘化丁未年河北ニ頼ツカハシ/碁石共ニ求ヲク/瀧川常榮/珎蔵」と記されている。

 

<2>碁笥、碁石、碁笥箱(Ⅰ)の考察

碁笥箱(Ⅰ)には「河北耕之助房種ノ作/弘化丁未年河北ニ頼ツカハシ/碁石共ニ求ヲク/瀧川常榮/珎蔵」と記されており、1847(弘化4)年に瀧川常榮が碁石とともに依頼した河北耕之助作の碁笥ということになる。河北耕之助が碁笥を製作していたということは知られていないが、碁笥箱の記述を信じれば製作していたのだろう。依頼者である瀧川常榮については、どこに住む、どんな人物であるのかは現時点では全く分かっていない。またこの碁笥、碁石、碁笥箱がなぜ八雲本陣にあるのかも不明である。

 

<3>碁笥、碁石、碁笥箱(Ⅱ)の概要

(1)碁笥(Ⅱ)の概要

①「李門」の碁笥

 碁笥の蓋には「李門」、横には「神智圓通長出於李老又玄之門/資愛(印)」、底には「弘化丁未七月河北房種刻」と彫られている。

 

②「荘室」の碁笥

 碁笥の蓋には「荘室」、横には「天機発動常高於荘生虚白之室/洗心」、底には「儀同日野公製幷書取以賜余也」と彫られている。

 

(2)碁笥箱(Ⅱ)の概要

 碁笥箱には、「□棊磐附屬/李門/荘室/棋筒」と記されている。

 

<4>碁笥、碁石、碁笥箱(Ⅱ)の考察

(1)碁笥(Ⅱ)の考察

①「李門」の碁笥

 碁笥の横に刻まれた「神智圓通長出於李老又玄之門」は、「神智圓通ハ李老ノ又玄之門ニ長ク出ヅ。」と訓んでおく。蓋の「李門」は「李老又玄之門」の中から二文字を取り出して表記しているもので、「李老のいう門」であることを示している。

老子の本姓は李氏であることから「李老」と呼ばれることもあることから、「李老(老子)のいう「又玄の門」を持つことによって、四方八方へ広がってゆく神の英知が、末長く出続けていると捉えることができる」というような意味になるだろうか。

 「又玄之門」は、『老子』第一章の末尾に「玄之又玄、衆妙之門」という一節があるが、これに由来しているものではないかと推察している。諸橋轍次氏の解説文を引用しておくと、「道が万物生成の根本であることの別の表現である。「玄」とは老子の道を指す。道こそはすべてのものが生ずるところであるから「門」という。「衆妙」とは宇宙間の森羅万象を指す。「玄の又た玄」とは、幽玄中の幽玄なるものをいう。」となっている。

 この『老子』の第一章の全文を白文で紹介しておく。道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

 この第一章の全文を小川環樹氏の和訳で引用しておくと、「「道」が語りうるものであれば、それは不変の「道」ではない。「名」が名づけうるものであれば、それは不変の「名」ではない。天と地が出現したのは「無名」(名づけえないもの)からであった。「有名」(名づけうるもの)は、万物の(それぞれを育てる)母にすぎない。まことに「永久に欲望から解放されているもののみが『妙』(かくされた本質)を見ることができ、決して欲望から解放されないものは、『徼』(その結果)だけしかみることができない」のだ。この二つは同じもの(鋳型)から出てくるが、それにもかかわらず名を異にする。この同じものを、(われわれは)「玄」(神秘)とよぶ。(いやむしろ)「玄」よりもいっそうみえにくいもの(というべきであろう。それは)、あらゆる「妙」が出てくる門である。」となっている。

 以上のことを踏まえて、碁笥の横に刻まれた「又玄之門」は、「「玄」のさらに「玄」である門、神秘のさらに奥深い神秘である門、そしてそれはあらゆるものの「妙」、隠された本質が出てくる門」といった語句として捉えたいと思う。

 碁笥の底の「弘化丁未七月河北房種刻」は、1847(弘化4)年7月に河北耕之助(房種)が刻したと記されている。先述の碁笥箱(Ⅰ)と同じ年のものとなるが、こちらはより詳しく7月であることを示している。

 

②「荘室」の碁笥

「天機発動常高於荘生虚白之室」は、「天機発動ハ荘生ノ虚白之室ニ常ニ高シ。」と訓んでおく。

「荘生」は「荘子」のことを指すので、「荘生(荘子)がいう「虚白之室」を持つことによって、天地自然の神秘が動き出すことを、常に高い状態で捉えることができる」というような意味になるだろうか。

「虚白之室」は、『荘子』の「内篇・人間世第四」中の「虛室生白,吉祥止止。夫且不止,是之謂坐馳。(虚室、白ヲ生ジ、吉祥ハ止マルモノニ止マル。夫レ且ツ止マラザル、是レヲ之坐馳ト謂フ。)」の一節に由来するものではないかと推察している。

森三樹三郎氏の和訳で引用しておくと、「物ひとつない空虚な部屋には、さんさんとした太陽の光がさして、あのような明るさがあるではないか。幸福もまた、あがきをやめた空虚な心にこそ、とどまり宿るのである。それを知りながら、なおかつ、あがきをやめることを知らないものは、すわったままで走ることをやめないもの、永遠に休息を知らないものである。」となっている。

碁笥の横の「虚白の室」という語句は、「白を入れ込むことができる空の状態の部屋」

底の「儀同日野公製幷書取以賜余也」は、日野資愛が製作し、書き取ったものを、河北耕之助に与えたと記している。「儀同」は日野資愛の号である。

 

③「李門」の碁笥と「荘室」の碁笥

 「李門」の碁笥と「荘室」の碁笥と並べてみたときに、碁笥の文字が対となっていることと黒と白に対応していることを指摘することができる。

 「李門」の碁笥は「神智圓通長出於李老又玄之門」、「荘室」の碁笥は「天機発動常高於荘生虚白之室」となっており、並べてみると対句的表現となっている。蓋の方も「李門」、「荘室」となっており、こちらもそろった状態となっている。

 また黒と白の対応については、「李門」の碁笥は「玄」(黒)、「荘室」の碁笥は「白」の文字を含むことから指摘することができる。現在では通常、碁笥は特に黒用、白用と決まっているわけではないが、この碁笥においては蓋も含めて、黒用、白用が定められている形となっている。

 どのような背景でこの撰文を日野資愛が行ったのかは不明であるので、碁笥を河北耕之助が製作する前提でなされたものかは分からない。先の螺鈿細工のような修飾が施された碁笥と同様、この碁笥、碁石、碁笥箱がなぜ八雲本陣にあるのかは不明である。

 

<5>関係人物の考察

(1)河北耕之助

①『坐隠談叢』における河北耕之助の記述

『坐隠談叢』(原著者:安藤如意)の「川北耕之助」の項には、「(略)耕之助は啻に囲碁に達したるのみならず、家伝の兵書を暗んじ、曽て弓術の秘書を、雲州の松江藩に献じ、同藩の客士に列せらる。書は松花堂を習得し、学は和漢に通じ、其著「賢巳瑣談」の如き、実に漢文を以て之を認めたり。」と記述されている。また改編者の渡辺英夫氏による附記では、「囲碁の論説書として耕之助著「囲碁小学」(天保十一年刊行説話戦法を記述す)は有名である。「置碁必勝」(外山算節遺稿文政三年刊行)同じく「置碁必勝後編」(算節遺稿天保三年刊行)は、耕之助が編纂である。」と記述されている。

河北耕之助の生没年ははっきりしないが、『囲碁史談・星輝庵棋録』の中で渡辺英夫氏は、嘉永三年の番付に名前があるのに、嘉永四年の番付には名前がないことから、嘉永三年乃至四年、つまり18501851年に没したのではないかと推察している。

②『平安人物誌』における河北耕之助の記述

江戸時代の京都在住文化人の人名録である『平安人物誌』には、河北耕之助についての記述がある。「河北房種/字伯隆/河北耕之助」として、「筆法家上代様書家」と「碁」の欄の二箇所で記述されており、囲碁だけでなく、書道の世界においても評価されていたことが分かる。

1822年、1830年には「烏丸下立売北」に、1838年には「室町竹屋町北」に在住していたことが記述されている。烏丸通は京都御所西端のすぐ外側の通りで、室町通はその二筋西の通りであり、下立売通は京都御所南端外側の丸太町通から二筋北の通りで、竹屋町通は丸太町通から一筋南の通りである。いずれの場所も、京都御所の南西部に位置しており、京都御所からかなり近い場所で生活していたことが分かった。

 

③島根県出雲市の『山本家文書目録』中における河北耕之助の記述

島根県出雲市知井宮の豪農山本家の『山本家文書目録』によると、「R.寺社」に「書状〔本願寺門跡御使として廻国の件J R8京都河北耕之助→山本権市文政798日小紙l」と記されている。書状の実際を確認していないが、本願寺門跡の御使として諸国を回っていて、出雲周辺を回るに際して、山本権市に手紙を出したのではないかと推察される。手紙の日付が文政71824)年98日とあるので、それ以降に出雲周辺を訪れた可能性もある。

なお、『山本家文書目録』にはこの他に囲碁関係の文書として、「日新坐隠録〔碁勝負付〕P11天保62月横帳1冊」、「秀策先生御来臨之節稽古勝負録P20繁松軒→ 安政453日横帳l冊」が記されている。

『山本家文書目録』によると、「山本閑休」は5代目仁兵衛(権市)のことであり、「山本佐六」はその実子で、中富屋の養子となった新次郎のことである。この二人は全国での囲碁番付などで名前を見ることのできる、囲碁史の世界ではそれなりに知られた存在であったといえる。

 

(2)日野資愛について

①日野家について

日野資愛は現在の京都市伏見区日野を拠点とした藤原北家(藤原房前家)系の一族で、浄土真宗宗祖である親鸞、後醍醐天皇の起こした正中の変に関与した日野資朝と日野俊基、室町幕府八代将軍足利義政の妻として知られる日野富子など、歴史的にも多くの人材を輩出している。大正天皇の生母である柳原愛子、歌人柳原白蓮で知られる柳原家は日野家の分家筋に当たる。

日野の地は、日野家の氏寺である法界寺がある他、鴨長明が方丈記を書いた庵があることでも知られている。八雲本陣の木幡家が元々拠点としていた現在の宇治市木幡とも近い地に当たることも興味深い点である。

②日野資愛について

生没年は1780年~1846年で、号は南洞、儀同を用いている。1810年に参議に任じられて以降、公家として政治的にも活躍し、最終的には従一位准大臣まで上り詰めた。その一方、菅茶山の墓碑の額題字を書いたり、頼山陽の『日本外史』の序文を執筆しているなど、漢詩文や書などの文化的素養の高い人物であったことが知られている。

こうした背景を踏まえると、囲碁や書道の世界でも活躍し、御所近くで生活していた河北耕之助とも接点があったものと考えられる。日野資愛が老荘思想を踏まえた上で、碁石の黒と白とに当てて漢詩文を作っているのは相当な素養が必要となるように感じられる。

一、はじめに

 202010月に日本棋院松江支部の岸本裕之氏より筆者に、八雲本陣(島根県松江市)から服部因淑及び井上因碩の署名のある碁盤や河北耕之助が製作したと記された碁笥などが出てきたとの手紙をいただいた。そのことを受けて日程調整し、11月に一般財団法人八雲本陣記念財団理事長木幡均氏(木幡家十六代当主)のご厚意により、日本棋院松江支部の岸本裕之氏、石碕修二氏、日本棋院出雲支部の西村悟氏とともに、筆者が八雲本陣に訪問し、館内案内および碁盤、碁笥、碁石の披露をしていただいた。

 本論文は八雲本陣の碁盤、碁笥、碁石の紹介をするとともに、これらの筆者なりの考察、見解をまとめたものである。漢文の翻刻、訓読、解釈などに難点を多く含んでいることは承知の上で、それらは今後への問題提起として広くご批判を仰ぎたいと思っている。さまざまなご指摘をいただければ幸いである。

 

 

二、八雲本陣について

 八雲本陣(松江市宍道(しんじ)町宍道1335)は、宍道(しんじ)()の南西部の宍道町の中心部に位置している。江戸時代には松江藩主の出雲大社参詣、斐川平野の鷹狩り、奥出雲の紅葉見物など領内移動の際に立ち寄る本陣として、利用された。敷地約1200坪、部屋数40以上の広大な敷地のうち、1733(享保18)年建築の母屋が1969(昭和44)年に国の重要文化財に指定され、2009(平成21)年に「朝日丹波の間」、「悲雲閣」などが国の重要文化財に追加指定されている。1907(明治40)年5月の山陰行啓の際に当時の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が、1982(昭和57)年10月の島根国体の際に昭和天皇がお立ち寄りになっている。八雲本陣は第二次世界大戦後より旅館として使われたが、2006(平成18)年に閉館した。

 

 

三、八雲本陣所蔵の碁盤

<1>碁盤の概要

(1)碁盤の裏面

 

 碁盤の裏面右側には「四方堅固/須如城」、上側には「文政十一子年/八月」、左側には「御棋所/服部因淑(印)」と記されている。

  

(2)碁盤の右側面

碁盤の右側面には「棋圍/静見/孫呉/㳒」と記されている。

(3)碁盤の左側面

 碁盤の左側面には「天保甲午三月之日/官/大国手/十一世井上因碩/方義(花押)」と記されている。

 

<2>碁盤の考察

(1)碁盤の裏面

 「四方堅固/須如城」は、「四方堅固、須ラク城ノ如シ」と訓んでおく。「東西南北の四方すべてが堅固、そんな城のようでなければならない」といった意味になるだろうか。

「文政十一子年」は、1828年は1月に本因坊丈和、2月に井上因碩が相次いで准名人に昇段した年である。この年の9月に丈和・幻庵因碩の最終局が打たれており、55手で打ち掛けになったものの、幻庵因碩が一方的に優勢になっている碁としてよく知られている。『坐隠談叢』でいう「文政の暗闘」の真っ只中の時期である。

(2)碁盤の右側面

 「棋圍/静見/孫呉/㳒」は、訓読にやや難があることを承知で、「棋圍トハ、静カニ孫呉ノ法ヲ見ルコトナリ」と訓んでおく。

 「㳒」は「法」の異体字なので、「孫呉㳒」とは兵家の孫子(孫武)と呉子(呉起)の兵法を指すものと考えている。幻庵因碩は『孫子』を重視しており、その意味ではふさわしい言葉といえるのではないだろうか。

(3)碁盤の左側面

 「天保甲午三月之日」は、1834(天保5)年3月である。八雲本陣へともに訪問した西村悟氏から、この年の4月に出雲大社に参詣したことをご教示いただいた。半年くらい前に出雲大社近くの手錢記念館(島根県出雲市大社町杵築西2450-1)へ訪れた際に立派な碁盤と碁石が展示されており、「天保54月、幻庵、出雲大社へ」との説明書きがあったとのことである。これらのことより、幻庵因碩が1834(天保5)年34月に出雲国周辺を訪れていた可能性が高い。

『幻庵因碩打碁集』によると、この年の対局は愛弟子の赤星因徹との対局のみで、月日の判明している棋譜のうちで署名に近い月日ものは63日である。翌1835(天保6)年719212427日の日程で、松平家の碁会が開催されている。微妙なタイミングでの出雲国訪問の背景には何があるのだろう。近隣で訪れる可能性のありそうな場所としては、松平家の碁会の実質的な主催者といえる浜田藩国家老岡田頼母のいる浜田(島根県浜田市)、先代の因砂因碩の生家山崎家のある馬路(島根県大田市仁摩町馬路)、井上家門人でもあった山本閑休、佐六などの山本家のある知井宮(出雲民藝館:島根県出雲市知井宮町628)などが挙げられる。

 「大国手/十一世井上因碩」は注目される表現で、井上家の世系書換問題に関連してくる。井上家の世系書換問題とは、「十世井上因碩」を継承した幻庵因碩が、「十一世井上因碩」を名乗り出した問題で、「初世井上因碩」の師である中村道碩を井上家当主の世系に組み込むことで、井上家から道碩と道節因碩の2人の名人を送り出した実績があるようにすることを意図したものである。そのため従来の「初世」から「十世」は、「二世」から「十一世」に繰り下がる形となっている。幻庵因碩以降の井上家ではこの世系が採用されており、井上家について調べる際には注意が必要な点である。

幻庵因碩は1824(文政7)年に井上家当主を継承したが、1825(文政8)年の免状では「十世井上因碩」と署名している。それが、1830(文政13)年の免状では「大国手井上因碩」と署名している。この表現はかつての井上家当主である道節因碩や春碩因碩が使用していたものを流用したものでもあるだろうが、これは前年の1829(文政12)年の先代因砂因碩が死去したことも影響しているだろう。八雲本陣の碁盤によって、1834(天保5)年3月の時点で「大国手/十一世井上因碩」と名乗っていることが確かめられる。「十一世」の名乗りの比較的早い事例であると思われる。

 「方義」は幻庵因碩の諡と記している書籍も多いが、生前に自筆の署名に用いられているので、字または号と考える方が自然だろう。代々因碩を名乗る井上家なので、その区別の意味もあるのかもしれない。

<3>谷口藍田 

 『坐隠談叢』によると、幻庵因碩が遭難した後に身を寄せた先が谷口藍田宅だったあり、帰途の資金が困窮していたを憂いて井上門下への入門を勧めたことが記されている。 

 1822年に肥前有田で生まれた。雅号の「藍田」はこの生誕地の有田が訛った表現である「アイタ」に由来していると伝えられている。 

 1840年に豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園に入って塾頭を務め、1843年に江戸に出て羽倉簡堂に入門し、多くの知己を得た。その後1848年より佐賀藩校の弘道館に入り、江藤新平、副島種臣らと交わった。 

 1851年に郷里の有田に私塾を開いたが、手狭になったりして場所をうして髟眞山書院を開いたが、失火により焼失して郷里を去った。 

 その後1869年に鹿島藩主の招聘を受けて鹿島藩校の弘文館教授となった。1896年に東京で藍田書院という私塾を開いたが、1902年に東京麹町にて死去した。 

 

<4>蓮香雄助 

 『囲碁史談・星輝庵棋録』の「明治以前棋家打碁遺譜調査表(其の一)」によると、「蓮花雄助」の打碁は太田雄蔵との4局が残されている。 

 段附などへの蓮香雄助の記載は下記の表にまとめたとおりである。 

 

1833 (天保4) 『諸国名碁鑑』 なし

1834 (天保5)『日本国中囲碁段附』 なし

1839 (天保10) 『圍棋勝劣競』西の2段目の17番目  二段/蓮香雄輔

1841 (天保12)『大日本圍碁姓名録』 二段之部本因坊門下11番目 蓮香雄助

1857 (安政4)『日本国中囲碁段附』本因坊門人之部三段14番目 薩州/蓮香雄助

 

<5>鍋島但馬 

 幻庵因碩の肥前訪問に直接関係しているかどうかは不明だが、鍋島但馬についても指摘しておく。『幻庵因碩』(日本囲碁大系第十一巻、筑摩書房、1975年)の林裕氏の「人とその時代十一・幻庵因碩」(p.253)によると、跡目安節と名乗ってから門人を取り立てるようになった幻庵の門人帳の最初に書かれてある門人が鍋島但馬であり、「文政三年庚辰七月十八日」とあることから1820年に入門したことが分かる。 

 鍋島但馬は、佐賀鍋島藩の家老の倉町鍋島家の敬文の子として生まれた茂延のことで、その後より格上の家老六家筆頭の横岳鍋島家(鍋島主水家ともいう)を継承した。 

 鍋島但馬が囲碁の腕が相当であったことは佐賀では一般に広く知られていたようで、佐賀の数え歌で「一(市)は高橋、二(荷)は牛津、三(産)は泰順、四(詩)は安道、五(碁)は但馬、六(禄)は諫早、七(質)は成富、八(鉢)は皿山、九(句)は十万庵」と歌われているほどである。 

 段附などへの鍋島但馬の記載は下記の表にまとめたとおりである。 

 

1833 (天保4)『諸国名碁鑑』 東4段目7番目 初段/鍋島氏

1834 (天保5)『日本国中囲碁段附』 二段之部井上門下5番目 肥州/鍋島但馬1839 (天保10) 『圍棋勝劣競』 西3段目11番目 二段/鍋島但馬

1841 (天保12) 『大日本圍碁姓名録』二段之部井上門下5番目 鍋島但馬

1857 (安政4)『日本国中囲碁段附』 なし

 

 幻庵の肥前訪問に鍋島但馬の名前が直接出てくることはないが、道中にもあたることから、関係者も含めてなんらかの関わりがあったとしても不思議ではないので、ここに記しておく。 

 

<幻庵因碩の略年譜>