四、八雲本陣所蔵の碁笥、碁石
<1>碁笥、碁石、碁笥箱(Ⅰ)の概要
(1)碁笥(Ⅰ)の概要
螺鈿細工のような模様がある碁笥で、周囲には蔓状の葉が蛇行した形でデザインされている。蓋は円の中央には四角、円、半円などの幾何学的な模様と獅子が、円の周囲には二つの蔓状の葉が向かい合って配されている。
(2)碁笥箱(Ⅰ)の概要
碁笥箱には、「河北耕之助房種ノ作/弘化丁未年河北ニ頼ツカハシ/碁石共ニ求ヲク/瀧川常榮/珎蔵」と記されている。
<2>碁笥、碁石、碁笥箱(Ⅰ)の考察
碁笥箱(Ⅰ)には「河北耕之助房種ノ作/弘化丁未年河北ニ頼ツカハシ/碁石共ニ求ヲク/瀧川常榮/珎蔵」と記されており、1847(弘化4)年に瀧川常榮が碁石とともに依頼した河北耕之助作の碁笥ということになる。河北耕之助が碁笥を製作していたということは知られていないが、碁笥箱の記述を信じれば製作していたのだろう。依頼者である瀧川常榮については、どこに住む、どんな人物であるのかは現時点では全く分かっていない。またこの碁笥、碁石、碁笥箱がなぜ八雲本陣にあるのかも不明である。
<3>碁笥、碁石、碁笥箱(Ⅱ)の概要
(1)碁笥(Ⅱ)の概要
①「李門」の碁笥
碁笥の蓋には「李門」、横には「神智圓通長出於李老又玄之門/資愛(印)」、底には「弘化丁未七月河北房種刻」と彫られている。
②「荘室」の碁笥
碁笥の蓋には「荘室」、横には「天機発動常高於荘生虚白之室/洗心」、底には「儀同日野公製幷書取以賜余也」と彫られている。
(2)碁笥箱(Ⅱ)の概要
碁笥箱には、「□棊磐附屬/李門/荘室/棋筒」と記されている。
<4>碁笥、碁石、碁笥箱(Ⅱ)の考察
(1)碁笥(Ⅱ)の考察
①「李門」の碁笥
碁笥の横に刻まれた「神智圓通長出於李老又玄之門」は、「神智圓通ハ李老ノ又玄之門ニ長ク出ヅ。」と訓んでおく。蓋の「李門」は「李老又玄之門」の中から二文字を取り出して表記しているもので、「李老のいう門」であることを示している。
老子の本姓は李氏であることから「李老」と呼ばれることもあることから、「李老(老子)のいう「又玄の門」を持つことによって、四方八方へ広がってゆく神の英知が、末長く出続けていると捉えることができる」というような意味になるだろうか。
「又玄之門」は、『老子』第一章の末尾に「玄之又玄、衆妙之門」という一節があるが、これに由来しているものではないかと推察している。諸橋轍次氏の解説文を引用しておくと、「道が万物生成の根本であることの別の表現である。「玄」とは老子の道を指す。道こそはすべてのものが生ずるところであるから「門」という。「衆妙」とは宇宙間の森羅万象を指す。「玄の又た玄」とは、幽玄中の幽玄なるものをいう。」となっている。
この『老子』の第一章の全文を白文で紹介しておく。「道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。」
この第一章の全文を小川環樹氏の和訳で引用しておくと、「「道」が語りうるものであれば、それは不変の「道」ではない。「名」が名づけうるものであれば、それは不変の「名」ではない。天と地が出現したのは「無名」(名づけえないもの)からであった。「有名」(名づけうるもの)は、万物の(それぞれを育てる)母にすぎない。まことに「永久に欲望から解放されているもののみが『妙』(かくされた本質)を見ることができ、決して欲望から解放されないものは、『徼』(その結果)だけしかみることができない」のだ。この二つは同じもの(鋳型)から出てくるが、それにもかかわらず名を異にする。この同じものを、(われわれは)「玄」(神秘)とよぶ。(いやむしろ)「玄」よりもいっそうみえにくいもの(というべきであろう。それは)、あらゆる「妙」が出てくる門である。」となっている。
以上のことを踏まえて、碁笥の横に刻まれた「又玄之門」は、「「玄」のさらに「玄」である門、神秘のさらに奥深い神秘である門、そしてそれはあらゆるものの「妙」、隠された本質が出てくる門」といった語句として捉えたいと思う。
碁笥の底の「弘化丁未七月河北房種刻」は、1847(弘化4)年7月に河北耕之助(房種)が刻したと記されている。先述の碁笥箱(Ⅰ)と同じ年のものとなるが、こちらはより詳しく7月であることを示している。
②「荘室」の碁笥
「天機発動常高於荘生虚白之室」は、「天機発動ハ荘生ノ虚白之室ニ常ニ高シ。」と訓んでおく。
「荘生」は「荘子」のことを指すので、「荘生(荘子)がいう「虚白之室」を持つことによって、天地自然の神秘が動き出すことを、常に高い状態で捉えることができる」というような意味になるだろうか。
「虚白之室」は、『荘子』の「内篇・人間世第四」中の「虛室生白,吉祥止止。夫且不止,是之謂坐馳。(虚室、白ヲ生ジ、吉祥ハ止マルモノニ止マル。夫レ且ツ止マラザル、是レヲ之坐馳ト謂フ。)」の一節に由来するものではないかと推察している。
森三樹三郎氏の和訳で引用しておくと、「物ひとつない空虚な部屋には、さんさんとした太陽の光がさして、あのような明るさがあるではないか。幸福もまた、あがきをやめた空虚な心にこそ、とどまり宿るのである。それを知りながら、なおかつ、あがきをやめることを知らないものは、すわったままで走ることをやめないもの、永遠に休息を知らないものである。」となっている。
碁笥の横の「虚白の室」という語句は、「白を入れ込むことができる空の状態の部屋」
底の「儀同日野公製幷書取以賜余也」は、日野資愛が製作し、書き取ったものを、河北耕之助に与えたと記している。「儀同」は日野資愛の号である。
③「李門」の碁笥と「荘室」の碁笥
「李門」の碁笥と「荘室」の碁笥と並べてみたときに、碁笥の文字が対となっていることと黒と白に対応していることを指摘することができる。
「李門」の碁笥は「神智圓通長出於李老又玄之門」、「荘室」の碁笥は「天機発動常高於荘生虚白之室」となっており、並べてみると対句的表現となっている。蓋の方も「李門」、「荘室」となっており、こちらもそろった状態となっている。
また黒と白の対応については、「李門」の碁笥は「玄」(黒)、「荘室」の碁笥は「白」の文字を含むことから指摘することができる。現在では通常、碁笥は特に黒用、白用と決まっているわけではないが、この碁笥においては蓋も含めて、黒用、白用が定められている形となっている。
どのような背景でこの撰文を日野資愛が行ったのかは不明であるので、碁笥を河北耕之助が製作する前提でなされたものかは分からない。先の螺鈿細工のような修飾が施された碁笥と同様、この碁笥、碁石、碁笥箱がなぜ八雲本陣にあるのかは不明である。
<5>関係人物の考察
(1)河北耕之助
①『坐隠談叢』における河北耕之助の記述
『坐隠談叢』(原著者:安藤如意)の「川北耕之助」の項には、「(略)耕之助は啻に囲碁に達したるのみならず、家伝の兵書を暗んじ、曽て弓術の秘書を、雲州の松江藩に献じ、同藩の客士に列せらる。書は松花堂を習得し、学は和漢に通じ、其著「賢巳瑣談」の如き、実に漢文を以て之を認めたり。」と記述されている。また改編者の渡辺英夫氏による附記では、「囲碁の論説書として耕之助著「囲碁小学」(天保十一年刊行説話戦法を記述す)は有名である。「置碁必勝」(外山算節遺稿文政三年刊行)同じく「置碁必勝後編」(算節遺稿天保三年刊行)は、耕之助が編纂である。」と記述されている。
河北耕之助の生没年ははっきりしないが、『囲碁史談・星輝庵棋録』の中で渡辺英夫氏は、嘉永三年の番付に名前があるのに、嘉永四年の番付には名前がないことから、嘉永三年乃至四年、つまり1850~1851年に没したのではないかと推察している。
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②『平安人物誌』における河北耕之助の記述
江戸時代の京都在住文化人の人名録である『平安人物誌』には、河北耕之助についての記述がある。「河北房種/字伯隆/河北耕之助」として、「筆法家上代様書家」と「碁」の欄の二箇所で記述されており、囲碁だけでなく、書道の世界においても評価されていたことが分かる。
1822年、1830年には「烏丸下立売北」に、1838年には「室町竹屋町北」に在住していたことが記述されている。烏丸通は京都御所西端のすぐ外側の通りで、室町通はその二筋西の通りであり、下立売通は京都御所南端外側の丸太町通から二筋北の通りで、竹屋町通は丸太町通から一筋南の通りである。いずれの場所も、京都御所の南西部に位置しており、京都御所からかなり近い場所で生活していたことが分かった。
③島根県出雲市の『山本家文書目録』中における河北耕之助の記述
島根県出雲市知井宮の豪農山本家の『山本家文書目録』によると、「R.寺社」に「書状〔本願寺門跡御使として廻国の件J R8京都河北耕之助→山本権市文政7年9月8日小紙l通」と記されている。書状の実際を確認していないが、本願寺門跡の御使として諸国を回っていて、出雲周辺を回るに際して、山本権市に手紙を出したのではないかと推察される。手紙の日付が文政7(1824)年9月8日とあるので、それ以降に出雲周辺を訪れた可能性もある。
なお、『山本家文書目録』にはこの他に囲碁関係の文書として、「日新坐隠録〔碁勝負付〕P11天保6年2月横帳1冊」、「秀策先生御来臨之節稽古勝負録P20繁松軒→ 安政4年5月3日横帳l冊」が記されている。
『山本家文書目録』によると、「山本閑休」は5代目仁兵衛(権市)のことであり、「山本佐六」はその実子で、中富屋の養子となった新次郎のことである。この二人は全国での囲碁番付などで名前を見ることのできる、囲碁史の世界ではそれなりに知られた存在であったといえる。
(2)日野資愛について
①日野家について
日野資愛は現在の京都市伏見区日野を拠点とした藤原北家(藤原房前家)系の一族で、浄土真宗宗祖である親鸞、後醍醐天皇の起こした正中の変に関与した日野資朝と日野俊基、室町幕府八代将軍足利義政の妻として知られる日野富子など、歴史的にも多くの人材を輩出している。大正天皇の生母である柳原愛子、歌人柳原白蓮で知られる柳原家は日野家の分家筋に当たる。
日野の地は、日野家の氏寺である法界寺がある他、鴨長明が方丈記を書いた庵があることでも知られている。八雲本陣の木幡家が元々拠点としていた現在の宇治市木幡とも近い地に当たることも興味深い点である。
②日野資愛について
生没年は1780年~1846年で、号は南洞、儀同を用いている。1810年に参議に任じられて以降、公家として政治的にも活躍し、最終的には従一位准大臣まで上り詰めた。その一方、菅茶山の墓碑の額題字を書いたり、頼山陽の『日本外史』の序文を執筆しているなど、漢詩文や書などの文化的素養の高い人物であったことが知られている。
こうした背景を踏まえると、囲碁や書道の世界でも活躍し、御所近くで生活していた河北耕之助とも接点があったものと考えられる。日野資愛が老荘思想を踏まえた上で、碁石の黒と白とに当てて漢詩文を作っているのは相当な素養が必要となるように感じられる。