【苦労することは ~真の愛の香り~】2009.1.29
苦労することは
心を大きくすること
苦労することは
心を大きくすること
人を愛することは
その大きな心を美しくする
大きな心を美しくすること
「美しい心」とは真の愛に溢れた心。その心を持てるようになるためには、人を愛する「大きな心」が必要です。そして、その「大きな心」に育つために「苦労すること」は、私たちが歩むべく人生においての財産であり、それは神様が与えて下さった貴い環境なのではないかと思います。
また、「苦労」によって私たちは大きく成長していけるのであり、信仰の道に欠かせない「苦労」というのは、苦痛ばかりではなく感謝と喜びで神様と共に乗り越えていけることなのだと感じます。
歌詞の素晴らしいみ言に感動しますが、そのみ言に出会わせて下さったことに感謝するばかりです。
曲はいたってシンプルですが、ポイントの一つとしては「人を愛することは~」のマイナーコードトーンのフレーズ。この部分は、愛し易い人ばかりを愛するだけではなく、苦労の先にある敵や怨讐までも心尽くして愛したい、、、というイメージが表現されています。
歌詞は短いフレーズを繰り返していますが、言葉の意味を噛みしめて心情深い愛の世界を描きながら讃美していただければ幸いです。
~文鮮明先生のみ言から~
いかなる宗教でも、苦労ということが目的に行く過程において絶対的要件となっている。なぜ苦労が必要か?これが問題である。
原理で教えられるところによると、人間は堕落し、無原理段階に落ちてしまった。人間としての形はもっているんだけれど、本然の神の理想に沿うような基準から見た場合、それは原理の内容に立っている価値のものと見ることはできない。そういうような人間が、再び復帰の目的に戻っていくには、反対の方向をたどっていかなくてはならない。反対の方向というのは結局再創造の道である。
こう考えてみると、自分というものは、神を主体とすれば相対の立場に立つ。堕落しなかった場合には、主体と相対は同一な次元において理想を果たすべき存在であった。それが堕落してしまったのだから、我々は相対的立場にいるんだけれど、その相対的価値、あるいは内容においては、神は相対者として認めることはできない。
絶対服従、それは苦労である。苦労の目的は、結局は神の創造本然の位置から、完成される立場にまで立った条件として認められる。だから苦労を、犠牲をしていけば、我々は完成圏に立つ。それ以外に道がないからその道を満たし、宗教は相応した苦労の道を強調せざるを得ない。ということを理論的に整理しておかなければならない。堕落の道を乗り越えるには、絶対服従の道以外ない。だから神は、仕方なしにこの道を求めざるを得ない。
信仰の道は落胆を感じながら行く道ではありません。だから犠牲と苦労は、すべてを授ける器になるというんだね。
しかし、本当の親である神であるならば、神がそういう苦労を子どもにさせて喜ぶ立場であろうか、つらい立場であろうか?この世の堕落した親子関係から考えてみた場合にも、自分の子どもに苦労させたい親は、絶対一人もいません。しかし、神はなぜ、こういう苦労の道を人間にさせるか。こういう摂理のみ言を率いていかなければならない神の立場はいかばかりつらいであろうか。神の立場を考えてみた場合、いかにかわいそうな神であろうか。我々、いかに苦労するといっても、一生以外にはない。地上生活は一世紀以内の生涯である。だから、神に対して今日一日の励ましのものを授けてあげるのが孝の道であり、忠の道である。ここにおいて、自分ながらの不平、不満を言うのは天宙的に許されない不幸者である。(1972.9.11 水沢里)
苦労することは
心を大きくすること
苦労することは
心を大きくすること
人を愛することは
その大きな心を美しくする
大きな心を美しくすること
「美しい心」とは真の愛に溢れた心。その心を持てるようになるためには、人を愛する「大きな心」が必要です。そして、その「大きな心」に育つために「苦労すること」は、私たちが歩むべく人生においての財産であり、それは神様が与えて下さった貴い環境なのではないかと思います。
また、「苦労」によって私たちは大きく成長していけるのであり、信仰の道に欠かせない「苦労」というのは、苦痛ばかりではなく感謝と喜びで神様と共に乗り越えていけることなのだと感じます。
歌詞の素晴らしいみ言に感動しますが、そのみ言に出会わせて下さったことに感謝するばかりです。
曲はいたってシンプルですが、ポイントの一つとしては「人を愛することは~」のマイナーコードトーンのフレーズ。この部分は、愛し易い人ばかりを愛するだけではなく、苦労の先にある敵や怨讐までも心尽くして愛したい、、、というイメージが表現されています。
歌詞は短いフレーズを繰り返していますが、言葉の意味を噛みしめて心情深い愛の世界を描きながら讃美していただければ幸いです。
~文鮮明先生のみ言から~
いかなる宗教でも、苦労ということが目的に行く過程において絶対的要件となっている。なぜ苦労が必要か?これが問題である。
原理で教えられるところによると、人間は堕落し、無原理段階に落ちてしまった。人間としての形はもっているんだけれど、本然の神の理想に沿うような基準から見た場合、それは原理の内容に立っている価値のものと見ることはできない。そういうような人間が、再び復帰の目的に戻っていくには、反対の方向をたどっていかなくてはならない。反対の方向というのは結局再創造の道である。
こう考えてみると、自分というものは、神を主体とすれば相対の立場に立つ。堕落しなかった場合には、主体と相対は同一な次元において理想を果たすべき存在であった。それが堕落してしまったのだから、我々は相対的立場にいるんだけれど、その相対的価値、あるいは内容においては、神は相対者として認めることはできない。
絶対服従、それは苦労である。苦労の目的は、結局は神の創造本然の位置から、完成される立場にまで立った条件として認められる。だから苦労を、犠牲をしていけば、我々は完成圏に立つ。それ以外に道がないからその道を満たし、宗教は相応した苦労の道を強調せざるを得ない。ということを理論的に整理しておかなければならない。堕落の道を乗り越えるには、絶対服従の道以外ない。だから神は、仕方なしにこの道を求めざるを得ない。
信仰の道は落胆を感じながら行く道ではありません。だから犠牲と苦労は、すべてを授ける器になるというんだね。
しかし、本当の親である神であるならば、神がそういう苦労を子どもにさせて喜ぶ立場であろうか、つらい立場であろうか?この世の堕落した親子関係から考えてみた場合にも、自分の子どもに苦労させたい親は、絶対一人もいません。しかし、神はなぜ、こういう苦労の道を人間にさせるか。こういう摂理のみ言を率いていかなければならない神の立場はいかばかりつらいであろうか。神の立場を考えてみた場合、いかにかわいそうな神であろうか。我々、いかに苦労するといっても、一生以外にはない。地上生活は一世紀以内の生涯である。だから、神に対して今日一日の励ましのものを授けてあげるのが孝の道であり、忠の道である。ここにおいて、自分ながらの不平、不満を言うのは天宙的に許されない不幸者である。(1972.9.11 水沢里)