教会生活と信仰 | IGM八王子キリスト教会 信徒のページ

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 参照聖書箇所:ユダの手紙全体

 

 教会は神に守られている安全な場所だと思われがちだが、実は常に誘惑にさらされている場所である。実は教会という場所は、この世の勢力(悪霊)と神の勢力が闘いを交えている最前線なのだ。教会ではさまざまな思想が吹き荒れ、そして救われた魂をさらって行こうとする。


 

 

教会を離れて、信仰を保つことは出来ない。聖書も読まず、集会にも出ず、クリスチャンでいることは難しい。人間はそれほど弱い存在で、その弱さは放っておけば放縦(自分の好きな生活)にどんどん進んで行く。 教会に行かなくても、聖書を読まなくても、聖霊を知らなくてもクリスチャンでいられるような気はするが、それは「クリスチャンのつもり」なのであって、世の人と変わらない。(ユダの手紙1819節)




 クリスチャンと称しながら、世の人と同じように世のものを追いかけて生きている。そしてそれに疑問を抱かない。まさに灯火は持っていたが、油を用意していなかった娘のようである。主の再臨の際に、どうしたらいいかわからず慌てふためいてしまう。




 主とは誰なのか・・・信仰とは何だったのか・・・何もわからない。でも自分はクリスチャンだと言ってみても、主は「私はあなたが誰かを
知らない。」とおっしゃるだろう。




・5
人の賢い娘の例え(マタイ251~13  



灯し火は持っていた
→クリスチャンだとは思っていた。


油が無い
→これは信仰生活をきちんと守らず、主を日々体験することもなく、聖書の約束も解らず、主が来られても、何をどうしていいのか、解らなくなった状態。



油を用意してあった
→信仰生活をきちんと守り、いつも主を身近に体験し、み言葉の中で主とお会いし、主が来られたら、すぐに親しくお迎えできる(主が来られたと解る)状態のこと。



灯し火と油を用意してあった
→クリスチャンである自覚と、それを裏付ける豊かな信仰経験と確証を持っていたということ。



 救いの達成と言うのは、信仰生活を続けることである。エジプトを脱出した人間でカナンの地に入ったのは、ヨシュアとカレブだけであった(ユダの手紙
5節)



 教会生活を守らなくても、この世での生活はさして変わらないだろう。名ばかりのクリスチャンであっても、信仰生活をきちんと守るクリスチャンであっても、死ぬまでの生涯はそれほど変わらないかもしれない。しかし主が来られた時、油が用意してあるかどうかは、すぐにわかってしまう。



 大好きなスターが目の前に現れた時、よく知っていて、普段からその人に関心を抱き、その人のことを考えていれば、すぐにその人だということがわかる。けれども好きだと公言していても、実際その人に関心がなく、情報も収集していなければ、目の前に現れても誰だか解らない。話をしてみてもとんちんかんで、すぐに似非ファンだということがばれてしまう。それと同じように、再臨の時、あなたは主を見ても解らないし、主はあなたを知らないというであろう。

 

 救いの達成は罪許された後も、日々主と親しく交わり、聖霊に導枯れ ることが何よりも大切である。