私ごとですが、来週から勤務地がかわります。
工場での事務を勉強するということで、深川の近くにある工場に行くことになりました。
また新たな職場ということで、少しナーバスになっています。
あらたな勤務先でも、うまくいくように皆さんお祈りください。よろしくお願いいたします。
さて、今週の証を続きを書きます。
しかし、他人よりもいい点をとりたいとか、私よりいい成績の人に嫉妬をするという気持ちはありませんでした。ただ純粋に高い点数と高い評価を得たかったのです。そして、その気持ちが満たされることはありませんでした。9科目の5段階評価で40を下回ると、自分はだめだと思いました。数学や理科はあまり得意ではなく、技術家庭や美術などの手先を使う教科はとくに苦手でしたが、実技が苦手な分は試験前に丸暗記をしてテストでカバーして、なんとか成績を保ちました。どうしても覚えられないものはカンニングペーパーを作ってカンニングしたり、ときには試験が終わった後で答え合わせをするときに、間違った答えを書き直して先生に持って行って採点しなおしてもらうということもしました。
1点でも2点でも高い点数がほしかったのです。
親から成績について何か言われた記憶はありません。小学生のころは「勉強しなさい」と言われることもありましたが、中学生になってからは、とくに何も言われなくなりました。親から何も言われなくても自分で自分にプレッシャーをかけていました。
私は目立ちたい一心で生徒会長にもなりました。
小学校四年生のとき、学芸祭の出し物でミュージカルの「CAT’S」をやることになりました。キャッツという劇は群像劇(群猫劇?)なので、誰でもある程度平等に参加することができます。配役も生徒が自分でやりたい役を選ぶことができました。
私は劇の台本を読みながら「ガスじいさん」という役をやりたいと思いました。ひとつには、ガスじいさんにはソロパートがあったからです。ほかのどの歌も最低2人以上で歌うのですが「ガスじいさんのうた」はだけはガスじいさんが一人で歌うのです。
「ガスじいさん」の歌を覚えている限り、少し書いてみます。
ガスは老いぼれののら猫
いつも寝ている楽屋口
本名はアスパラガス 野菜みたい
でも面倒だから 呼び名がガス
昔はすごい二枚目だったとさ
でもその面影はいまいずこ
ほほえみながら目を細めて
昔は良かったとつぶやく
小屋の近くの安い酒場で
仲間におごられ 話し出す
振る舞い酒に酔っ払い
調子に乗って とめどなく
俺は大スター とも共演した
その人気は並外れ
俺が出ると 声がかかる
待ってました ガス大統領……
というような歌だったと思います。
もうひとつには、この歌に表されているように、とてもコミカルな役だと思ったからです。昔の栄光にすがっている、今は老いぼれののら猫というのはとても面白い役だと思いました。
小学校の演劇ですから、劇団四季が演じるようなキャッツとはストーリーもぜんぜん違います。
洗練された、そして高飛車な都市の飼い猫たちと、元気いっぱいでやんちゃな野良猫たちとの、全面戦争というストーリーだったと思います。
そのなかで、私は私なりに役作りをして、いろいろと考えました。もちろん目立ちたいという気持ちもありましたが、ただ目立ちたいというだけではなくて、いかにガスじいさんという役を面白く見せるかということを考えました。
最初にのらねこたちが総出でカッコよくダンスを踊るシーンがあると、台本ではそのシーンにガスじいさんは登場しなかったのですが、私は出させてもらって、若いのらねこのいちばんしんがりで杖をつきながらよたよた出て行って、みんなが側転を決める中で、背中から落ちたり(体操クラブに入っていたので、わざとらしく失敗することができました)みんながかっこよくダンスを踊る中で、一人だけどんどん遅れていったり、というような演技をしました。
気持ちは若くても体はよぼよぼでついていけてないのに、ぜんぜん気づかないじいさん、というのが私の考えた「ガスじいさん」でした。
そして、最後の飼い猫とのら猫との決闘シーンでは、よぼよぼだったはずの「ガスじいさん」はいきいきしはじめて、飼い猫を相手に杖をふりまわしたり、ほかの猫たちが一匹一匹と力尽き果てて倒れてゆく中で、ついにはテンションがあがりすぎてしまって、けんかそっちのけで、一人で周りをぐるぐると走り回ったあげく、とつぜん心臓が痛くなって倒れるという演技をしました。
大勢の人の前で演技をするというのが、本当に好きだったのです。たくさんの人が私に注目している、私を見て笑っているということが快感でした。それから私は大勢の人の前に出るようになりました。運動会の応援団長をしたり、そのなかで女装をしてチアリーディングをしたり、目立てそうなことには積極的に参加して、そのなかでどうすれば面白いかを考えていました。
それは中学校を卒業するまで続きました。
中学校では私の人生をとても大きく変える出会いもありました。
中学校3年間担任であった国語科の池田先生と、その先生に教えられたディベートとの出会いでした。
ディベートというのは討論ゲームのようなものです。
たとえば「学校から校則をなくすべきである」というような論題を決めて、それに賛成する側と反対する側に分かれて討論を行います。
ディベートがゲームであるというのは、自分がそれについてどう思うのかということに関係なく、機械的に肯定側と否定側に分かれるということです。
ゲームですからルールがあります。少し説明がややこしいかもしれませんが、できるだけ簡潔に話します。
まず論題が発表されます。選手たちはその論題について肯定側・否定側のどちらからでも議論できるように準備します。この準備の期間は、大会によってまちまちです。朝論題が発表されて、お昼から試合に試合を始める大会もあれば、全国大会では3月に論題が発表されて、決勝戦は8月ですから、ほぼ半年間ひとつの論題について準備をすることになります。
大会では、試合を始める直前に、肯定側と否定側をじゃんけんやくじびきで決めます。選手は4人1チームで、それぞれ役割があります。立論ははじめに、自分たちがどうしてその論題を肯定・否定するのか、ということを演説します。これは一番分かりやすいパートではないでしょうか。
次の人は質疑といって、相手の立論の疑問点や矛盾していると思われるところについて質問します。相手チームの立論は、質疑の質問に対して答えなければなりません。試合の中で唯一、直接のコミュニケーションが見られるパートです。
それから第一反駁があります。相手の立論に対する反論です。
最後に第二反駁があります。相手の第一反駁で反論されたことについて再反論をしたり、試合全体の流れを俯瞰的に説明して、どちらの議論がすぐれているのかを論じます。
私はディベートの、とくに第二反駁には才能があったように思います。人前で演じたまま話すのは、私にとって日常的なことだったので、そういうスキルは常日頃から磨いていたものでした。
第二反駁というのは、ある種の演技力が必要だと私は思います。立論や第一反駁というのは、事前に準備してきた議論の発表であり、どれだけ準備をすることができたかにかかっていますが、第二反駁は試合の流れを読み、同じような討論が繰り返される中で、その試合の微妙なポイントをつかみ、議論を組み立てるという即興芸のようなところがあると思います。またそれまでの流れで勝っているときには楽ですが、形勢不利なとき、また誰が見ても勝ち目がなさそうなときには、第二反駁が一人でひっくり返さなければならないわけですから、大変です。多くの人は自分たちが不利でも有利でも、おなじようなスピーチをします。相手の反論に対して再反論をして、それぞれの議論を評価するという一つのパターンしかしません。
しかし私は、形成有利なときには再反論をすることもありますが、不利なときには、まともに反論していては勝てないので、相手も審判もけむにまくようなスピーチをしました。相手の主張を過少評価したり、こちらの主張を過大評価したり、うそやはったりを言いました。
ディベートの試合には審判がいて、ある程度ディベートに関わったことのある社会人や大学生がスピーチを聞いて、判決を下します。
もし、厳密にお互いのスピーチーを検討して、それぞれの議論を十分に理解する時間があったなら、私のスピーチは、よくてとんちんかん、下手をすれば、わざと虚偽の議論をしたとして、失格処分になっていたかもしれません。しかしディベートでは、ジャッジが耳で聞きとれた内容がすべてです。ジャッジも選手のスピーチをすべて正確に記録できるわけではありません。選手としては一人あたり約5分程度の時間の中でスピーチをするので、話し言葉の数倍のスピードでスピーチをしますし、ジャッジは選手8人がそれぞれのスピーチをするのをすべて聞いて書き取らなければならないわけです。
たとえば「この事故によって、死者は10人、負傷者は50人」というスピーチをすると、ジャッジは
「事故、死者10 負傷50」くらいのメモしかとれないわけです。
そこで私は(もしこのスピーチと反対側の立場だったら)
「この事故による被害者は10人です」というわけです。
するとなぜか相手もこの事故による被害者は10人として話をしたり、ジャッジもこの事故の被害者は10人として評価したりするわけです。
実際には、ここまで分かりやすく嘘を言ったことはありませんが、それでも一度としてこの点についてジャッジから指摘を受けたことはなく、私としてもばれるかばれないかぎりぎりのところを巧妙に見抜くポイントを試合を重ねるごとに磨いていったように思います。
それに、もし嘘を指摘されたとしても、選手も相手のスピーチを試合中にただ聴くだけで理解しなければならないわけですから、聞き違いによって、相手の議論を過小評価することはよくあるわけです。それは選手にもジャッジにもよくあることで、私も「聴き間違えました」と開き直れば、なんとでもなるだろうと思っていました。
こうして私は嘘をつくことにますます抵抗を感じなくなってゆき、嘘をつくことが日常的になってゆきました。
むしろいかに巧妙に嘘をつけるかというのも一つの能力であるとさえ、無意識に思っていたような気がします。
私は少々発音に難があり、どもる傾向があります。普段はそれほどでもありませんが、緊張したり、緊張した中で書いてあるものを読まなければならない(小学校で音読の発表をするとか)という場合は、それがひどくなり、さらにどんどん早口になります。またとても緊張しやすい人間なので、ディベートの試合前にはすごく緊張して、たびたび嗚咽を漏らすほどでした。
(僕が試合前に嗚咽するところを友達が真似するくらいでした)
立論や第一反駁をしてみたこともあるのですが、そのような状態で書いてあるものを読むと、人にはほとんど聞き取れないくらいひどいものになりました。しかし第二反駁をするときには異常なくらい集中力があがって、相手のスピーチを聞きながら、自分が4分間で話すスピーチを頭の中で練り上げて、どのポイントはばっさりと切り捨てて、どのポイントをこう持っていくことで、どこを目指すのかということが、頭の中に出来上がりました。もちろんそれがうまく出来上がるときもあれば、まったく頭の中が真っ白になってしまうときもありましたが、試合をつむごとに、劣勢の時には劣勢なりのスピーチをすることができるようになりました。
たとえばその試合において勝負のポイントが10あるとすれば、いくら劣勢でも10すべてで負けているということはほとんどないわけですから、勝っている2~3のポイントを思いっきり強調するようなスピーチをすれば、ある人はそれがほかの何よりも大切だと思ってくれる可能性もあるわけです。
書き言葉で説明するには少々難しいことに、熱くなりすぎてしまったかもしれません。
私はディベートの能力をアピールして、高校は早稲田大学高等学院の推薦入試に合格し、高校二年生のときに全国大会で最優秀選手賞を獲得するにいたりました。
話を中学生のころに戻すと、中学校に入学したとき私ははじめ陸上部に入部しました。1500mに出場して、地区大会を突破し、東京都の大会に出場するくらいの力はありました。短い距離を早く走る力はありませんでしたが、比較的長い距離を走り続けられる持久力はあるように思います。中学一年の夏は、都大会に向けて夏休みには毎日練習をしていました。
私が中学に入学した年に、池田先生も転任してこられ、私のクラスの担任になられました。かなり型破りな先生で、この先生の国語の授業では教科書を開いたことが数回しかないのではないか、という記憶があります。授業の初めには先生が好きな詩を一篇黒板に書き、私たちはそれを書き写しました。それから先生はその詩について語りました。
そうした先生の話に、私は大変感化されました。「深夜特急」「どくとるマンボウ青春記」「ムツゴロウ青春記」「竜馬がゆく」…枚挙に暇がないほど、先生から薦められた本を読み、私の目指すべき人物像はそのような読書体験から築き上げられていきました。
池田先生は国語の授業でディベートをやり、ディベート部も立ち上げました。私は授業での試合を通して、ディベートにかなり興味を持ち、ディベート部に入ってみたいという気持ちも少なからずありました。しかしそのことを両親に話してみると、両親からはディベート部には入らないでほしいというようなことを言われました。中学生のときはまずは体を作るようにという気持ちがあったようです。
私としても、両親の気持ちに反抗してまでディベートをやりたいとは思いませんでしたし、また陸上でも自信がつき始めていたところだったので、この年ディベート部に入部することはありませんでした。