趙景達『近代朝鮮と日本』は2012年に岩波新書として出版されました。著者は千葉大学文学部教授、1910年の韓国併合までのあゆみを日本との関係を軸に記述した通史です。

 

■概略目次

第1章 朝鮮王朝と日本

第2章 朝鮮の開国

第3章 開国と壬午軍乱

第4章 甲申政変と朝鮮の中立化

第5章 甲午農民戦争と日清戦争

第6章 大韓帝国の時代

第7章 日露戦争下の朝鮮

第8章 植民地化と国権回復運動

第9章 韓国併合

 

執筆の方法論として、著者は「政治文化」に着目します。

 

政治文化とは、政治や抗争が行われる際に、その内容や展開のあり方などを規定する、イデオロギー、伝統、観念、信仰、迷信、願望、慣行、行動規範(ルール)などの、政治過程に関わる一切の文化のことである。政治文化は、一般的には支配層と被支配層で共有される。共有されない場合には、国家や政府は安定性を欠き、危機的状況となる。たとえば、前近代社会において、王政が一般に支持されたのは、国王というものは単なる徴税者なのではなく、領民に慈悲と幸福を賜う貴い存在であり、またそうあるべきだと観念されていたからである。国王が絢爛豪華な宮殿に住むことができたのも、臣下や領民との間にそうした合意があればこそのことであった。

  (「まえがき」、iii~iv頁)

 

 本書において、朝鮮の「政治文化」として繰り返し言及されるのが、「儒教的民本主義」です。それは前近代からの政治理念として朝鮮の人々の政治行動を規定し、西洋や日本からの近代化の奔流(著者の言う「帝国主義」)に抵抗する精神的基盤ともなりました。

 

儒教的民本主義というのは主に『孟子』の思想に範を採るものだが、権力主義的な覇道を排して徳治主義的な王道を目指し、どこまでも民のための政治を行うことが謳われた。王道政治にあっては、慈愛深き君主による万民に対する徳治が理想化された。

  (3~4頁)

 

 18世紀の国王たちは、儒教的民本主義における一君万民の実現を目指すようになります。

 

一君万民体制にあっては、公論や直訴は重要な言路であり、建国当初より重視された。儒教的民本主義にあっては、政治の主体はどこまでも国王や官僚・士族にあり、民は政治の客体でしかなかったが、その代わり民の異議申し立ては確固として認められていた。

  (6頁)

 

 王宮の前に行って鼓を叩くことにより(申聞鼓)、あるいは国王行幸の際にも直訴が可能でしたが、これをより頻繁に受け付けられるようになったとのことです。

 

 また、儒教的民本主義では、民は救難時には仁政を受ける権利を持っており、民衆救済は両班や富民の当然の責務とされていました。

 

 もちろん、儒教的民本主義はあくまで理想としての姿であり、現実の朝鮮社会は、政争、汚職、収奪、貧困に満ちたものだったと思われます。それが社会的動乱に結び付くのが、日清戦争を誘発した1894年の甲午農民戦争(東学党の乱)です。日朝修好条規(1876年)による開港以来、消費経済の浸透により民衆は貧窮化し、1890年からは飢饉が発生したにもかかわらず、救済のための施策は満足に行われませんでした。

 

 民衆救済がなされないのは儒教的民本主義の根幹が失われた状態であり、そんななかで民衆に広がっていた東学の一派が決起します。役所を襲って武器や米穀を奪うなどしながら数千の農民を集め、正規軍を打ち破るまでになりました(この後、政府が清に出兵を求め、日清戦争につながります)

 

 また、この時代には、政府や日本・西洋に対する不満から義兵闘争がたびたび組織されます。これも儒教的民本主義にかかわるもので、義兵のリーダーは主に儒学者で、民衆とともに抗議活動を行います。例えば日清戦争後の1895年、近代化を進める政権が断髪令を公布しました。これには当時の朝鮮人は相当な抵抗感があったようで、閔妃事件(王妃の暗殺に日本の公使が関与)への憤りもあって各地に広がる動きとなりました。

 

断髪は急進的に行われ、人々は街路や城門において強制的に髪を切られた。ここに、断髪令は父母から受けた「身体髪膚」を傷つけるものであり、小中華の礼俗を捨て「倭国」化するものであると考えた衛正斥邪派は・・・反日・反開化の義兵闘争に立ち上がることになる。

  (129~130頁)

 

 義兵闘争が本格化するのは、1905年の第2次日韓協約後、韓国が日本に植民地化されるプロセスにおける抵抗運動としてでした。この本では詳しく記述されています。

 

 ところで、著者は儒教的民本主義を、西洋から受け継いだものではない、土着の政治思想として評価しているように見受けられます。しかし現実の歴史過程では、近代の力の前に敗れ去りました。著者は下のように総括しています。

 

大韓帝国はあくまでも「旧本新参」(伝統を基礎として新しいものを加える)に固執し、儒教的な近代国家を創設しようとした。一般的に近代国家は政教分離を原則とするが、大韓帝国はあえてそれに反する近代国家作りを選択した。高宗は、儒教的民本主義を回路として近代化と臣民=国民化を推し進めようとしたが、それは大変な困難をともなうものであった。深刻な財源不足とも相まって、朝鮮では儒教的民本主義の観念は地域社会や民衆世界にあまりに分厚いものとしてあり、高宗もまた、それを最後まで放棄しようとしなかった。近代国家がしのぎを削る国大政治の中で、ある意味でそれは、自らの伝統・原理・理想にこだわった、壮大にして危険な実験=挑戦であったといえる。

  (162頁)