1946年5月に創立された東京通信工業(東通工。1958年にソニー(株)に商号変更)は、当初からピンチに見舞われました。居場所がないこと、お金がないことです。
1946年暮れ、それまで事務所を置いていた白木屋から退去を求められました。白木屋は売り場を拡大しつつあったのです。井深と盛田は、終戦後まもなく建物が不足しているなか、新しい場所を探し求め、ようやく分散していた拠点をまとめる場所を見つけることができました。
品川御殿山にある日本気化器が倉庫として使っていたおんぼろバラック工場。ここが、現在のソニー本社のあるところである。
(ソニー『ソニー創立40周年記念誌 源流』1986年、36頁。以下引用は同書より)
金策の苦労には、設立当初の資金繰りに加えて、1946年2月の金融緊急措置令が関わっていました。新円切り替えに伴って、現金の引き出し額に制限がかかったのです。そのため、新円の現金を確保する商品として電気ざぶとんを開発し売り出しました。傑作なのは、この商品が漏電を起こすと衣類等に火がついてしまうしろもので、今でいえば大問題になる欠陥商品と思われますが、会社初期のエピソードとして周年記念誌(元は社内報)に書いてしまうところが編集者の肝が据わっています。しかし実際にも、モノが極端に不足していた時代、そしてつい2年前まで生命の危険が身近にあった時代、消費者という言葉もなかった時代、会社に苦情が多く寄せられたとはいえ、人々はおおらかだったのかもしれません。
東通工は、自分たちの技術を使って新しいものを生み出したいという情熱で始まった会社ですが、特定の製品分野が念頭にあったわけではなく、さまざまな仕事をしています。周年記念誌に記述された創立当初の開発品は下表のとおりです。
年月 |
商品名(販売先) |
概要 |
結果、成果など |
1946.7 |
真空管電圧計納入 (国鉄) |
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1946.8 |
電気ざぶとん製造(市販) |
2枚の美濃紙の間に細いニクロム線を格子状に入れて糊付けし、レザークロスでおおったもの |
断線などが原因で発熱し衣類や寝具を焦がす苦情も多かった |
1946.8 |
二号調音器製造 (逓信省、国鉄) |
カーボンマイクにより電信の授受を容易に行えるようにした装置 |
画期的な小型商品としてよく売れた |
1946.10 |
ピックアップ「クリアボイス」製作(市販) |
レコード盤から音声信号を取り出す部品。焼け跡に残った鉄材を使った |
好評を博し量産品になった |
1946.11 |
無線中継受信機(NHK)改造 |
旧軍用無線機を放送用に修理・改造する |
NHKへの最初の納品 |
1947.8 |
音声調整卓(NHK)改修 |
GHQが使用していた内幸町の放送設備の改修 |
短納期で上々に仕上げ、GHQの信用を得る。NHK設備の新しい注文が全国から相次ぐ |
1947.9 |
鍵盤模写電信機の試作 |
電信を紙のテープに記録する機械 |
試作品を注文主に売却 |
1947.10 |
パワーメガホン製品化 (商社経由市販) |
カーボンマイクを使った拡声器 |
選挙用などによく売れた |
1947.10 |
二重平衡装置の試作 |
電報を受ける側の末端装置 |
需要は多くなかった |
この当時の同社の社員たちの働きぶりにはすさまじいものがありました。
東京通信工業(株)は、船出した。翌日から全員が会社を盛り上げなければという気持ちで頑張った。そのぶん夜が遅くなる。あまり遅くまで仕事をしていると、白木屋の出口という出口にみな鍵をかけられてしまう。そこで仕方なく非常階段から降りると、それを見とがめた警察官につかまって絞られる者も出る騒ぎ。
(26頁)
当時は電力制限をこえて使うと電気を切られることになっていたが、東通工の連中はそんなことお構いなしに昼夜をたがわず働いてしまう。そのために、太刀藤工場の持主は自分の所の電気を切られるのを恐れての立ち退き要求であった。
(36頁)
スタジオ関係をやっていた黒髪定は、大阪での改修工事のため四十日間の長期出張にいった。しかもその内の十一日は徹夜という凄じさである。調整卓と増幅器、増幅器と増幅器をつなぐのを当時は盤間配線で行う。コネクターでつなげばなんでもないことであるが、その頃はそんな洒落たものはない。線と線を端子板にハンダ付けしていくのだ。この作業は、全部の放送が終わった深夜に行われる。何十本という線を片手にもってハンダ付けしていくうちに眠くなってしまう。しかし間違えたら大変だ。音が出ない。・・・どうにか作業を終えて朝を迎え、最初の放送を聞く時もドキドキしたものだ。放送の内容なんかてんで耳に入らない。ただただ雑音はしないか、事故はなかったかとヒヤヒヤのしどおしであった。
(45頁)
逓信省・国鉄などからの注文が増え、市販品の開発もあって会社は拡大を始めました。上の表の中で同社の転換点となったのは、1947年8月のNHKのスタジオ設備改修でした。GHQの設備改修要求にNHKが対応するサポートをしたものです。当時GHQは、内幸町のNHK放送会館内のスタジオ設備を使って、進駐軍放送やアメリカの民間ラジオの中継サービスを行っていたのです。この仕事は全国のNHKに広がって東通工の経営の安定に資するとともに、次の大きな飛躍の足掛かりとなりました。
調整卓を手がけることによって、井深たちはオーディオの何たるかを知ることができ、後に東通工の独擅場となった録音機へ苦もなく取り組むことができる下地が出来ていったのだ。
(48頁)