今年の5月から、コーポレートガバナンス・コードによる株式市場改革の実態をまとめ、11月以降は、改革の結果としての日本企業の株主至上主義的な変容、株主偏重の利益配分に伴う社会的格差拡大の危険性について述べました。
次に、この改革によって日本企業が失ったものは何かというテーマで検討します。
ガバナンス改革は株主の側に経営者を引き寄せた
コーポレートガバナンス・コードによる企業改革は次のような変化を日本の上場企業にもたらしました。
①株主の利益を第一に考える仕組みの構築
(資本コストの重視、取締役等へのインセンティブの強化)
②株主支配を制約する行動の排除
(持ち合い株式や買収防衛策のタブー化)
③経営陣に対する株主の監督強化
(社外取締役の増加、諮問委員会による経営陣の監督強化など)
④株価を高め維持する財務施策の採用
(自社株買い、高配当の維持)
以上の変化は、高度成長期に日本企業が持っていた1つの特色を奪うことを狙っていたと言えます。すなわち、企業は従業員のものであるという「従業員共同体」としての意識です。
「従業員共同体」意識の前提は、従業員の出世の階段の一番上に役員や社長がいる、という認識です。ヒラの従業員にとって社長は雲の上の人ではありますが、自分と隔絶した存在ではありません。経営者は従業員とつながった存在ですが、株主は従業員の視線の外にありました(従業員持株会は近しい存在でしたが)。
コーポレートガバナンス・コードによる改革は、経営者を株主のほうに向ける変化をもたらしました。この改革を通じて、経営者は、従業員の近くから株主のもとに移動したと言えるのではないでしょうか。実質賃金が長く停滞する一方で、株主利益の拡大のために多額の資金が投じられたことを想起すれば、経営者は、従業員よりも株主をはるかに大事にするようになったと言うことはできるでしょう。
日本的経営と株主至上主義
少し歴史をさかのぼると、1945年の敗戦直後より労働組合運動が高揚し、企業は経営側と労働側の対決の構図のもとで危機に陥りました。しかし経済の復興が進む中で、経営陣と労働組合が企業発展という共通の目標のもとで、互いに牽制しながらも協力する形式が生まれ、高度成長を下支えするシステムとなりました[1]。
また、戦前の財閥家族等による企業支配は終焉し、経営者は平等な身分の社員から選抜されるようになるなど、資本と経営の分離、企業構成員の民主化が進みました。従業員は企業内で経験を積むとともに能力を高め、社内で次第に重要なポストを任されるようになるという意味で、経営者は従業員にとって到達目標となりました。経営者と従業員は連続した存在であり、両者の一体性が強まりました。この段階では、ともに「従業員共同体」としての意識を持っていたと考えられます。
ところが1990年頃にバブルが崩壊すると、金融機関は膨大な不良債権を抱え、多くの企業には過剰な投資による負債と過剰な人員が残されることとなり、この処理に日本の官民は苦しみました。それまで称賛されていた日本的経営は地に落ちます。
日本的経営の失敗の原因として、経営者の暴走を許したことが問題となり、ここで株主による経営者モニタリング論が浮上します。その典型例は、経営者は株主の代理人であり、株主の利益を最大化することが経営者の務めだとする思想です。
1990年代末から、この株主第一主義、株主至上主義によるコーポレートガバナンス改革が少しずつ進みました。このようにコーポレートガバナンスは、本来、既存のやり方ではうまくいかなくなった日本企業をいかに立て直すか、という文脈で導入されたものでした。
しかし、2015年に導入されたコーポレートガバナンス・コードの実体は、もともとの目的から離れ、株主利益のために日本企業を改造したように見えます。悪く言えば、投資家は自らの利益を生み出すための装置として企業を見ている、そのような投資家のために便を図っているように思えてしまうのです。
『日本型コーポレートガバナンス』
コーポレートガバナンス改革が始まった頃は、株主第一主義、株主至上主義を採用しない改革案もありました。その例として、伊丹敬之『日本型コーポレートガバナンス』(2000年)の考え方を以下に紹介します。同書は、刊行当初から日本的慣行を再評価するガバナンス論として注目され、特に株主偏重を批判する議論において一定の影響力を持ってきました。
同書を紹介する理由は、いまや株主至上主義が米国をはじめ欧米で強烈な反発にあって終焉しつつあるなか、新しい企業の姿を検討する上で、かつての日本企業が持っていた「従業員共同体」意識に目を向けてはどうかと思うからです。また企業で働く人の心理を想像した時に、最終目的は株主の利益だということを知りながら一生懸命働けるものだろうか、という素朴な感覚もあります。
この点について、同書は「株主主権のもとでは、働く人々は、基本的には株主の利益に奉仕することによって報酬をもらう人々となる」と触れています。働く人々の関心を株主利益の方向性に誘導させるためにはインセンティブシステムを活用することになります。
一方、同書が主張する従業員主権のもとでは、自発的に企業活動に努力を注ぎこみやすく、また短期的な利益を追求するのではなく長期的・全体的な視野で意思決定をしやすくなる、としています(107~112頁)。
以下は、同書の従業員主権論の要点です。
・企業の主権者は、すべてのステークホルダーの中でも、とりわけ企業に不可欠な要素、すなわち資本と労働を提供する人々である(第1章)。
・すべての株主と従業員が等しく重要なのではなく、企業への貢献度が大きい「コア株主」と「コア従業員」に大きな権限を与えたコーポレートガバナンスとするべきである。
・コア株主とは、会社の経営面で機能を発揮し、かつ長期に企業にコミットしている株主のこと。例として、中小企業のオーナー経営者は、資金面では銀行借り入れ時に債務保証をすることでリスクを負うとともに、経営者として働きとびぬけた貢献をしている。
・コア従業員とは、企業に主体的に関わり、独自のノウハウを提供し、会社の運命に強い影響を受けるもの。例えば長年勤務した従業員や中間管理職など。
・コア従業員は、一般の株主に比べて、競争力の源泉であること、企業との紐帯の強さ、リスク負担などの面で、主権者としてよりふさわしい(以上第3章、特に102~106頁)。
・コーポレートガバナンス改革の基本方向は、従業員主権を守りながら、経営者へのチェック機構をきちんとつくることが重要である(第7章)。
・会社法のもとでの経営者へのチェック機構として、経営者監査委員会、コア従業員の信任投票を提案する(第8章)[2]。
現在の日本の株式市場の規範のもとでは、アクティビストなどによる株主利益の追求が相変わらず続いています。「従業員主権」という語感はやや強すぎるように感じるものの、コア従業員・コア株主といった企業への関与度の強い者を重視することでガバナンスや業績の向上に結び付けるという基本構図は、これからの日本の会社の方向性を考えるうえで有効なのではないかと思います。
グローバル資本主義と従業員主権
『日本型コーポレートガバナンス』の最終章のメッセージを紹介します。グローバル資本主義の時代に日本型コーポレートガバナンスは間尺に合わないのではないか、という疑問に対して、そのような時代であるからこそ従業員主権の必要性が高まるだろう、ということを著者は力説します。
「グローバル資本主義の時代になり、資本が世界的に豊富になりかつ素早く動き回り、しかも金融資産に対するリターンが厳しく要求される時代だからこそ、かえってコーポレートガバナンスの中核は従業員主権である必要が強くなってきていると思う」(329頁)
その理由の第一として、企業という金の卵を育てるのは誰ですか、と著者は問います。グローバルな投資家にとって、一つの金の卵が死んでも、また新しい金の卵を探してそこでまたリターンを吸い上げればいいと考えるでしょう。しかしコア従業員は、金の卵を育てるための情報とインセンティブを持って企業にとどまる人たちだというわけです。
「彼らがメインの主権を持ち、しかし逃げない資本を提供している株主たちにきちんとしたリターンをわたせるよう最大限の努力をするような、そうした企業制度こそがグローバル資本主義の時代に適合した、長期的に望ましい企業制度だと思う」(331頁)
理由の第二は、グローバル資本主義が本質的に抱える不安定性をやわらげる役割を従業員主権企業が果たせることです。
「(不安定性をやわらげる方法の一つは)人々が社会的な規範を共有して、その中で一種の道徳的規範を持つようにすることである。企業という世界を考えたとき、そうした価値観の共有は働く人々の間に一種の「共同体感覚」が生まれるときに可能になりやすいだろう。その共同体感覚のためには、安定的なヒトのネットワークが必要であり、そのネットワークに自分たちが所属しているという感覚を人びとが持てることが必要であろう」(333頁)
こうして著者は、日本型ガバナンスがグローバル資本主義の時代に意味をもつ可能性は高い、と呼びかけるのです。
[1] 戦後の労働組合運動については、日立製作所、王子製紙、八幡製鉄などの事例を2021年~2022年にかけて本ブログで紹介しました。
[2] 会社法は、資本提供者すなわち株主を主権者と規定しているように考えられているが、実際は、資本提供者と金融債権者の関係を決めているのであって、従業員の会社との関係は扱われていないとする(84頁)。なお、著者は会社法の内側と外側の両方でガバナンス論を展開する。ドイツの企業法制を引き合いにしつつ、日本の会社法を相対化する議論も展開されている(8~9章)。

