自分の故郷は宮城県です。

そして、宮城県を代表する人と言ったら、伊達政宗一択です。




伊達政宗は日本中で人気だし、何なら宮城県民の中では、現職の県知事よりも認知度高いです。


宮城県のゆるキャラはみーんな眼帯をつけています。


宮城県の有名な歴史上の人物がいないわけじゃないけど、伊達政宗は特徴的だから敵わないんですよね。




まず、伊達政宗は山形県米沢市出身で、子供の頃もずーっと米沢に住んでいました。


元服して会津攻めを行い、父親を殺害するきっかけになったり、弟を殺害するきっかけになったときも米沢に住んでいました。


宮城県は伊達家の領地ではありましたが、伊達政宗が居城をうつしたのは、なんと24歳のときです。


しかもその理由が豊臣秀吉による小田原城攻め後の命令によるものです。


宮城県一有名な仙台城を築城して引っ越したものの、住んでいたのは人生70年間の内の27年間でした。



あれ、大して仙台に住んでなくない?

なんなら、米沢市は上杉景勝だけでなく、伊達政宗と二台巨頭で盛り上げて、伊達政宗人気を奪えるのでは?というレベルです。



とはいえ、多くの大名は徳川幕府時代の居城を地元として判定されているので、仙台に名だたる人がいない宮城県としては何としても伊達政宗はキープしたいのでしょう。



そんな伊達政宗はやたら強い武将として描かれます。


確かに眼帯しているにしては強いですが、当時の武将の中ではそこまで強かったわけでもありません。


血気盛んではありましたが、めちゃくちゃ優秀な部下がいつつも、茨城県の佐竹家の策謀に苦戦しまくって、逃走するときに矢じゃなくて鉄砲だったら死んでいたというくらいのギリギリの敗走すらあったりします。



関ヶ原の戦いでは福島県を奪うべく、上杉軍と戦いますが大苦戦。

上杉軍は山形県の最上軍とも戦っているのに!



徳川政権下での大阪夏の陣では、数ではかなり優勢な伊達政宗軍は真田幸村に苦戦。

終いには、これ以上頑張っても利少なしと、やる気すらなくしてしまって、幸村に嘲笑されてしまいました。



なので、伊達政宗は決して戦上手でも強者でもないと思います。




では、伊達政宗がなぜ歴史に名を残す逸材だったのか。


それは伊達政宗の圧倒的な政治力とカリスマ性です。


もうこの二つだけなら、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という日本を制覇したとも言える三人に並ぶのでは?というくらい凄い。



カリスマ性はまず、病気になった片目を腹心である片倉小十郎に取り除かせました。

他家なら死刑です。


でかいこと言いながら結果を戦では結果を出せてはいないものの、これまで近隣の家と結婚しまくって、みんな親戚だらけだった東北南部の勢力図を一変させたりと、時代に変化をもたらしたのが大きい。



更には小田原城攻めです。


当時の豊臣秀吉は強敵は北条家だけという状態で、伊達家は北条家と仲良しでした。


そのおかげで、佐竹家は伊達家攻略ができなかったわけですが、伊達政宗は豊臣秀吉に勝手に戦争するんじゃねえと命令されたのに無視して、宮城県北部で戦争を起こしたりしていたんですね。


ま、伊達家が負けたんですけど。

そんな豊臣秀吉を怒らせたりしていて、更には小田原城攻めに遅刻したにも関わらず、白装束で詫びに言って、面白いやつじゃ〜で許してもらえるなんてカリスマ性あるとしか思えません。


他の大名からしたら、絶対政宗死罪だわって思っていたでしょうね。



このときが最大領地で、山形県南部、宮城県南部、福島県内陸部を持っていました。



福島県の領地を没収されてから宮城県北部の一揆鎮圧を、福島県に引っ越してきた蒲生氏郷と一緒に攻略を命じられます。


そしたら、一揆を扇動したのが伊達政宗だとバレちゃう。


しかも京都の人質が偽物なのもバレて、豊臣秀吉に呼び出しを受けます。


こいつはまたもや死罪か?と思いきや、山形県南部を没収されて、代わりに戦争で荒廃した宮城県北部を貰って、更にはなぜか羽柴の名前までいただいて羽柴大崎侍従と名乗れたりしています。


どんな話をしたかはわからないけど、内乱扇動したことで呼び出し受けて、領地的には痛手だけど羽柴の名前貰えるって、どんな交渉があったのでしょうか。



日本を統一した豊臣秀吉は朝鮮半島へ侵略します。


このときには日本中の武将に声がかかりましたが、九州はまだしも、東北からだと福岡県まで馬で行き、そこから船と行くのが大変すぎる。


で、伊達政宗はそんな朝鮮半島の領地はいらないし、移動だけで参勤交代以上の負担がかかる戦争したくないので、伊達軍は豪華絢爛な装備で京都を行進しました。


豊臣秀吉は派手好きで、しかも京都の都会の人達の中でバズったおかけで、豊臣秀吉は伊達政宗を近くにおいて見物することになり、出陣を遅らせることに成功。


しかも二度の朝鮮出兵に対して一度しか行かなくて済んだりもしました。


ちなみにこのときの派手な伊達軍の格好から伊達者という言葉が生まれたとされています。


また、朝鮮出兵では多くの国が兵糧の味噌がだめになってしまいましたが、仙台味噌は他よりも長持ちした為、日本全国に仙台味噌を宣伝することにもなりました。



大阪夏の陣では、幸村の三女を部下の片倉重長が生け捕りにしています。


徳川家からしたら難敵幸村の子供なので、打ち首なわけですが、伊達政宗は正体を判明しても突き出さずに宮城につれて帰り、そのまま片倉重長と結婚までさせます。


結婚前には幸村の娘ということが家康にバレていたみたいだけど、伊達政宗持ち前の交渉術で乗り切ったのでしょう。




豊臣秀吉も徳川家康も伊達政宗はいつも警戒しなければいけない大名でした。


豊臣秀吉は会津に近畿からわざわざ蒲生氏郷を引っ越させて、南下できないようにしたし、家康も事あるごとに政宗を牽制していました。



しかしながら、二人からの信頼も凄く、例えば秀吉は伊達政宗の片腕である片倉小十郎の優秀さを知っていて、政宗の下から独立するなら5万石やるでと持ちかけるほど。


更には秀吉が参加する飲み会は当然ながら刃物持ち込み禁止なのですが、なぜか政宗が脇差し持っていたことを秀吉が特別にOKしたり、政宗が秀吉の宝物の刀を自慢されていいなーいいなーと言って借りパクしたときも、秀吉はあんにゃろと言いつつも、政宗だからいいよと部下に取り返さないように指示を出しています。



家康は息子の秀忠が政宗と仲良しなのを知ると、あいつは油断ならないが味方にしておくなら凄く頼れるから手綱はしっかり握っておけみたいなことを言っていました。


政宗の長女には家康の六男と結婚させたりもしました。

(六男がクズで後に離婚)



京都で大名達が集まるイベントのときは、当然ながら京都に連泊します。

地元大名の所に泊めさせてもらっていたのですが、イベントが終わってみんなが帰っても政宗は居座って京都観光を楽しみます。


直接懇願しても帰ってくれないので他の大名に相談したら、政宗だからなぁ…で流されるレベル。


各大名に好かれてはいなくても、政宗じゃ仕方ないとか許される立ち位置になれるというのは、一級品の政治力がなければできないことでしょう。



当時は幕府の許可なく勝手に海外にいっちゃだめだよだったのに、政宗は虚偽の報告をして海外へ行ける船を建造し、支倉常長率いる慶長遣欧使節団を出国させています。


これは外国勢力と組んで伊達家が徳川幕府転覆を狙ったとも言われていますが、なにはともあれ、日本初の海外派遣であることから、なかなかに凄い技術がありました。



技術といえば、前述の地元米沢を没収されて、戦争して荒廃した宮城県北部を貰ってからのこと。


伊達政宗はそのまま復興するのではなく再開発を行い、更には新しい農法や稲の改良を行い、当時では圧倒的な収穫量になりました。


それは江戸時代には江戸の米の3割は仙台藩の米になるほどで、面積当たりの収穫量は日本一だったとか。



このように良くも悪くも数々の偉業を残し、数々の逸話を残していきました。



更には政宗は大の手紙好き。

当時は紙が貴重なのに、暇だから今度お茶飲もーとか、最近天気が悪くて会えないからつまんないとか、腕相撲しすぎて腕震えちゃうとかって手紙を家臣達に送っています。


中には読んだら燃やしてねという手紙も少なくありませんでしたが、こうやって現代に残っているということは、家臣達は大したことない内容や燃やせと言われた手紙すら大事にするほど、慕われていた証拠でもあります。



政宗は外様大名でありながら譜代大名のように扱われ、宮城県しか領地がない伊達家なら一つが妥当という一国一城制時代でありながら、白石城の保有がゆるされ、どうみても城なのに、砦や屋敷と誤魔化して許されて、ぶっちゃけ譜代大名入れても一番多く城持っていたんじゃないかな?というくらいの待遇でもありました。




政宗は徳川二代目将軍秀忠、三代目将軍家光まで仕えます。


政宗は料理が好きで、大名用の台所に乗り込んでは、新しい料理を作ったりもしていました。


そんな政宗の屋敷に秀忠将軍が来たときには、自分で料理を作って提供。


そこには護衛がいて毒見しなきゃダメ!と怒ると、俺が毒を使うくらいなら槍や矢を持ってくるわボケー!とブチ切れました。

襖の防音効果では丸聞こえの為、秀忠が毒見せずに食べるよととりなして、出来たてほかほかな美味しい食事を食べたとか。



家光は戦争知らずの将軍なので、政宗の誇張された戦話が大好き。

九州の他の外様大名の話も好きでしたが、政宗をより城に呼んでは話をしてもらっていたとか。


歳の差からすると、爺と孫という感じで、家光は将軍としての仕事の相談や家族の悩み等も話していたそうです。


家光が将軍にふさわしくない言動をすれば、政宗が諌めたりもしたそうです。


そんなの家老クラスのお仕事で外様大名がやったら無礼者ですが、家光は怒ることなく素直に聞き入れたんだとか。


将軍との酒の席で泥酔していびきをかいて寝るのが許されたのも、記録では政宗だけという溺愛っぷりでした。


もうね、戦では全然手柄はなかったけど、将軍にここまで信頼され、慕われたのなら天下を取ったも同然だったでしょう。



そんな政宗は江戸に出てきたときに、病気で家光の元へ行けず、仙台屋敷で寝込んでしまいます。


ここは謝罪の手紙を送らなければいけないことですが、家光は自ら仙台屋敷に見舞いに行き、更には江戸上の社寺に祈祷させたり、自分の主治医を派遣したりと手厚く対応します。


このとき政宗はすでに末期ガンだったので、そのまま亡くなってしまいます。


これに本当の爺である家康や父親の秀忠の死よりも悲しんだとか言われており、江戸で一週間、日本全国で三日間の殺生及び遊ぶことを禁じました。




伊達政宗の時代は最も仙台藩が成長した時期であり、その後は幕末に敗戦して北海道へ渡ったりするまでは、奥州筆頭はずっと伊達家でした。


伊達の名は宮城県だけに留まらず、今も都内には仙台坂下という地名があります。

佐賀県には伊達政宗陣跡があったりと、宮城県以外にも痕跡が残っています。




このように伊達政宗は他の偉人大名ほどの戦上手ではありませんが、政治力、経営力、カリスマ性で後世に名を残し、人気を博す人物だと言えると思います。