■自分だけかもしれないけど…

 

 日常の中で感じる、ちょっとした「生きにくさ」。

 

 例えば、パソコン操作で書類をアップロードしようとして、その書類が入っているフォルダにアクセスすると、命名規則のバラバラなファイルが雑然と保存されていたので、気になって命名規則の整理を始めてしまい、書類アップロードという本来の目的を忘れてしまう。

 

 開けたオフィスで仕事をしていると、自分に言われたり自分の話をされているわけでもないのに、他人同士の会話が気になって聞こえてきてしまう。

 

 周りの人の機嫌が悪いと、自分がなにか悪いことをしたのではないかと不安になる。

 

 誰に向けたでもない注意や指摘が、常に自分に向けられているかのように感じてしまい、気疲れする。

 

 最近、二郎に並ぶのが面倒になってきた。

 

 

 そんな、1つ1つは取るに足らないようなことだけれども、地味に感じる様々な「生きにくさ」を以前から自覚していました。往々にしてこのような生きにくさは「集中力の低下」や「疲れやすさ」となって現れ、仕事のパフォーマンスや普段の生活に影響するもの。

 

 集中できないこととかは自分でどうにかすれば良いと思っていたのですが、視聴覚の情報を遮ることができない以上、意志だけではこういった生きにくさを排除するのが難しいと、管理職になった最近は特に感じるようになりました。人の仕事ぶりをチェックし管理監督する立場であるはずが、自分のことに汲々としてしまったり十分なチェック機能を果たせていないと考えるようになり、解決のためにどういった方法が考えられるかと探っていたところ、見つけた1つの答えが

 

「精神病院を受診する」

 

ということでした。

 

 ここで言う「精神病院」は、精神科単独の町医者を指しています。とはいえ、今はあまり「精神病院」という言い方は通称としてはされておらず、もっぱら「○○メンタルクリニック」みたいな名称が一般的です。昔のメディアにも問題があり、精神病院と聞くとあまりいいイメージは抱かないですから…

 

 

 こういう偏見丸出しのアニメもあったわけですし。

 

 それはさておき、意志でコントロールできないということは何か自分の身体や脳の特性に問題があるのか?と考えたわけです。冒頭で述べたような自覚症状をWebで検索すると、色んな精神科医や学会、クリニックの記事が出てきます。その殆どが「大人のADHDの疑いがあります」という始まりでした。

 

 

■ADHD(注意欠陥・多動性障害)とは

 

 「ADHD」はそれぞれの症状の略語で

 

 Attention Deficit(注意欠陥)

 Hyperactivity(多動性)

 Disorder(障害)

 

を表します。人によって症状の出方は様々で、「注意欠陥」の方が大きく出る場合もあれば、「多動」が大きく出る場合、もしくはその両方が顕著な場合もあります。Web上では「思い当たることは有りませんか?」といった具合にそれぞれの特徴的な症例が挙げられ、当てはまる数で傾向を推し量る、みたいな簡易な診断ができるページがいっぱいあり、自分もやってみたのですがまぁよく当てはまる。見事に「ADHDの可能性があります」と簡易診断を下されたわけです。

 

 一例として、このような症例が挙げられています。

 

 ・忘れ物が多い

 ・計画を立てるのが苦手

 ・面倒なことを後回しにしがち

 ・単純作業の繰り返しが苦手

 ・一人でくつろぐことができない

 などなど

 

 一方で、上記のような行動特性は必ずしも病的な部分のみではなく、本人の不注意などに起因する部分も当然ながら一定量あると考えられており、これらを以て病名をつけることに懐疑的な向きがあることも事実です。

 

 実際、ADHDは子供期に発出する傾向の一種として捉えられており、これが成人後も影響し続けるパターンが有ると語られ始めたのはつい10年前ぐらいの話。正式に診断基準が設けられたのも2013年のことで、以前は「大人には存在し得ない」というのが医学界の通説でした。ある研究では、青年期にADHDの(いずれかの)症状が残るパターンというのは全体の約3%程度とも言われており、決して珍しいというレベルではない事がわかってきています。

 

 加えて、「単純作業の繰り返しが苦手」といった側面は「クリエイティブを好む」という特性の裏返しでもあり、実際に著名なクリエイターの中にもADHDの人がいたりなど、単純な病気・障害というよりは「個性」と見る向きもあることから、ADHDの診断は「白か黒か」ではなく「白から黒の間のグラデーションでどの程度に位置するか」といった診られ方になります。

 

 一般に、ADHDは脳内部室の不足に起因すると言われています。

 

 ドーパミンやノルアドレナリンといった、意欲やストレス耐性を高める神経伝達物質が不足することにより、集中を欠いたり注意が散漫になる、多動性の抑制が困難になることが原因とされています。人によっては分泌が不十分であるがゆえ、これら物質の分泌を促すために小児・成人共に主に投薬での治療が行われ、服用後の過程について経過観察を受ける、というのが一般的な対処法になります。ドーパミンの働きが欠乏するというプロセスはうつ病でも見られることから、ADHDを診察する病院はうつ病など他の精神疾患にも対応しているケースが多いです。

 

 

■正月休み明け、勇気を出して病院へ

 

 さて、果たして自分の場合はこうした医学的アプローチで解決できる話なのか、あるいは単に不注意を是正すればよいのか、なにか仕事でやらかしてしまう前に診てもらったほうが良いだろうと考え、職場近くの病院を受診することになったのが年明けの話。

 

 自分の行ったクリニックは割と大きめのところで、50人くらいは座れそうな待合エリアに15ほどの診察ブースがあるといういでたち。事前にWebで予約をした上で、問診票もその際にWebから提出します(どのような症状がありどんなことに困っているのか、それを自覚したのはいつからか、など)。初回診察ではその回答内容をもとに医師と話をするのですが、だいたいこんな感じでした。

 

 医「ほう…集中が維持できなく気が散ってしまったり、ケアレスミスが多いことを気にしているのですね」

 い「はい」

 医「仕事の仕方などを工夫するなど、対処はしていますか?」

 い「普段からWチェックを行ってて仕事自体は問題ないが、管理職という立場上自分がチェックをする側になることが多いので何とかしたい」

 医「わかりました、ADHDは症状の度合いよりも『どれだけ困っているか』で治療方針を決めるものです。仕事上の懸念を解消したいとのことであれば、小容量の投薬から始めてみましょうか。」

 い「おかのした」

 医「効き方には個人差があるので、効き目が薄いようであれば容量を増やしたり種類を変えることを検討しましょう。では今日は以上です、お大事に」

 

 診察は正味5分もないくらいでしょうか。かなりあっさりしてるなーというのが正直な感想でした。その後簡易診断と血液検査(服薬に当たり内蔵に異常がないかなどを確認する目的)を行った上で会計を済ませ、近くの調剤薬局で薬を受け取り、初回の受診は終了しました。

 

 ちなみに診察後に受けた簡易診断というのが、Webでもあるような「このような症状に思い当たるフシはないですか?」というYes/No型の一問一答と「バウムテスト」と言って「まっさらな紙の上に自由に木を書いてください」という心理テストチックなもの。この結果は2週間後の次回検診で返ってきたのですが、自分の診断結果はこうでした。

 

 【一問一答】

 AD(注意欠陥)及びH(多動性)いずれも傾向が強い

 

 【バウムテスト】

 抑うつ的で自分に自信がなく、疲れを感じている様子が伺える

 

 あくまで簡易検査なのでこれだけで確定診断は出せないとのことですが、一定レベル以上で傾向が現れていると知ることができたのはありがたかったです。ちなみに簡易検査自体はオプションなのですが、保険適用で+2,000円程度でした。

 

 

■処方薬は「依存性のない」安全なもの

 

 初回診察のとき、処方薬について医師から説明がありました。

 

 「この分野で有名なのはコンサータ(メチルフェニデート)という中枢系の薬ですが、依存性が高いので処方が登録制なんです。ウチには処方できる医師を置いていないので、非中枢系のストラテラ(アトモキセチン)を処方しますね。効き目についてはコンサータ同様という意見もあれば、弱いという見解もありますのであくまで個人差です。」

 

 メチルフェニデートは中枢神経に直接作用し、ドーパミンの取り込みを阻害して血中ドーパミン濃度を高めることで集中を促すとされている一方で、継続摂取により耐性が作られることから依存性が高く、徐々に量を増やしていく必要があります。そのために過剰処方による濫用が問題となり、処方が登録制となりました。以前は「リタリン」としてナルコレプシーの治療薬にも広く使われていたことでも知られています。

 

 アトモキセチンはメチルフェニデートと違い依存性がない一方で、効き目が緩やかで具体的に効き始めるのには6〜8週間程度の服用が必要と言われています。とはいえ、今回かかったクリニックではこちらの選択肢しかないので、必然的にこれを選ぶことになります。最初は40mgの低用量からはじめ慣れてきたら80mgに増やすという順序を取るのが一般的だそうですが、後述する通り自分は一定の効果を実感できているので、2ヶ月経過後も40mgのままです。

 

 ちなみに薬価はジェネリック40mg2週間分で約4,000円(自己負担3割なので1,200円ほど)。このジェネリックにまつわる問題はまたの機会に。

 

■で、実際投薬治療でどう変わったの

 

 服用は朝食後の1日1回のみ。最初は催眠性(副作用の一種)を感じることもありましたが、順応するにつれ問題無く服用できるようになりました。依存性がないため「薬が切れた」という感覚もなく、通常の薬と同じ感覚で飲めています。

 

 実際に服用を開始して少しすると、冒頭に述べたような「生きにくさ」の一部が解消される感覚を得ることができました。特に、自己の業務遂行における「注意散漫」や「忘れっぽさ」が解消され、マルチタスクの進行も怠らずに進められる機会が増えました。他人同士の会話が入ってくる感覚はまだあるものの、それが以前のように過度に気になったりイライラしたりという度合いは低くなり、デスクワークが捗るようになりました。

 

 これが本当に投薬による効果なのか、あるいは単にそういった傾向を自認したことで自分自身の心の持ちようが変わった事によるのかどうかはハッキリとした答えは出ていないのですが、少なくとも以前から感じていた問題点を解消できたという点において、通院・投薬のプロセスが大きく寄与してくれたことは間違いないと思っています。

 

 以降、処方上限に合わせ2週間毎に通院を続けており、毎回の状況報告と今後の方向性(処方量を上げるかどうかなど)を定めた上で薬をもらい治療している、というのが現状です。今のところは「病気としての確定診断」は受けておらず、「そういう傾向があるようだから、薬でカバーしましょう」という段階に留まっています。

 

 

■問題は「終わりがない」こと

 

 ADHD自体はグラデーションの問題であり、白黒の線引ができない特性であるがゆえ何を以て「治癒」とするかが非常に難しいと言えます。幸い、依存性のない処方薬を服用しているので止めたところでなにか問題が起こる可能性は少ないと思うのですが、投薬により効果を感じることができたとするならばやはり自分の「生きにくさ」が脳内物質に起因する問題であるという証明にもなるわけで、自発的にそれを改善する事ができない以上は投薬治療に頼っていくことが必要と考えられます。

 

 もし、治療を終了させられる目安があるとすれば、投薬によって「うまく行っているときの自分」を自認することでその際の行動特性などを自意識によって反映することが可能な状態にまで持っていくことが求められるでしょう。元々「意志の力でコントロールが難しいから、医学的アプローチで解決できる可能性があるのか?」という問いから治療を始めたにもかかわらず、結局意志の力に頼ることになるのかという矛盾はありますが、ADHDや躁鬱の治療の過程においては「成功体験を集める」こともプログラムの1つとして挙げられており、その反復による学習で自意識による再現を目指すという事自体はあながち無謀な話でもないのかと思っています。

 

 あとは、それをどう病院に伝えるか。今の病院は担当制ではないため毎回違う医師が担当しています。後腐れなく相談できそうという期待がある一方で、どこまで自分の治療歴が引き継がれているかは正直不安でもあり、自身の希望に寄り添ってくれるかは不透明です。そりゃ向こうにとっては商売なんで当たり前ですけどね。

 

 

■欲しいのは「病名」ではなく「生きやすさ」

 

 最初、治療を受け始めるときには程度によっては病名をもらい、精神障害の認定を受けて生きていくことも有り得るのか?とさえ考えていましたが、ADHDに限らず精神疾患はボーダーが曖昧で過剰診療もときに見られることから、自治体でも認定は厳しいそうです。精神疾患には、申告により医療費の自己負担を1割に抑えられる「自立支援医療制度」というものがありますが、初回の医師いわく

 

 「ADHDではまず自治体は認定してくれないので、同じ治療薬で対応している躁鬱ってことにして診断書を書くんです。診断書を発行するのにもお金がかかりますし役所に行くのも手間ですから、無理に適用を希望しなくてもまずは様子見でいいのではないでしょうか。」

 

 ということでした。本末転倒。

 

 結局のところ、初回診療のときに言われた「大事なのはどれだけ困っているか」という話に尽きると思います。病気というものは全てにゴールがあるわけではなく、自分自身がうまく付き合っていけるレベルに持っていくことが重要なこともあるとわかったのが今回の学びでした。

 

 そして、冒頭に上げたような生きにくさを抱えた人が少なくないという事実。

 

 ときに大人のADHDに対しては「甘えだ」「病名が付けばなんとかなると思っている」という声もありますし、実際そのような側面が(自分含め)ある可能性は否定できません。ですが、自身の「意志の力」を過信せず、謙虚に身体と心に向き合った結果として医学的アプローチに解決の糸口を求める事自体は、決して悪いことではないと思っています。

 

 小さな生きにくさが、取り返しのつかない大事になる前に、できることを探ってゆく。少なくとも自分にとっては、この経験が改善への大きなきっかけになったと思えていますし、同様に悩まれている方にも「そのようなアプローチがある」ということを知ってもらえたほうが良いのでは?と思い、ブログにしたためた次第です。何かの参考、きっかけ、暇つぶしになってくれたなら本望です。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。