LINE@に

ぐりちゃんへのこんなご感想をもらった。








「心屋の講師なのに、

世間的に常識なことも言ってくれて嬉しい」



「常識があって、地に足ついてて好き」



「普通の子育て中の主婦の感覚が同じで好き」



 

たまたまなのか??

そういう時期なのか??



ぐりちゃんの「普通」を

ポンポンポン!と

複数名の方からほめられた。(^ω^)


うれしい。





世の中には
 

「普通とか平凡とかってなに??」

「はぁ?普通なんて無いよ?!」


「あなたにとっての普通は

私にとっての普通ではありません。フンガーッ!」



と「普通」という単語が出た途端

嫌悪感を示したり、

「普通」であることを

妙に毛嫌いしたりする風潮もあるけど、




わたしは

「普通」とか「平凡」とか

「常識」とか「一般的に」って、

とても素晴らしいことだと思うよー。





「普通」がダメなのではなく、

単に、自分の頭の中にある

「普通」とか「常識」というイメージに

縛られ過ぎて身動きが取れなくなると

苦しいよ、というだけ。



自分の頭の中にある

「普通」とか「常識」というイメージに

縛られ過ぎて、

自分だけじゃなく周りの人も

そのものさしで裁き始めると

しんどくなるよ、ってだけ。





もともとの「普通」とか「常識」とか「平凡」に

良いも悪いも無いよ。



それだけ安定してるってこと。




普通ヽ(´ー`)ノバンザーイ

常識ヽ(´ー`)ノバンザーイ




うれしいよ。

ありがとう。









今回、ポンポンポンって

自分の「普通」を褒められて気づいた。





そもそも、普通の人は

「自分は普通です」アピールはしない。

 

本当に、素晴らしい人は

「わたしは素晴らしい」アピールはしない。



本当に個性的な人は

「わたしは変わってます(普通じゃありません)」

アピールはしない。




アピールしてる時点で

認められたいが乗っかってる。

そりゃ、しんどいだろう。


 
 

「普通」も、「個性的」も、「ユニーク」も、

誰かに認められるための

アピールだと、しんどいのだ。





人から言われて

「おー!そうなのねー!うれしい。」

と気づくくらいで、心地よい。




「普通」と言われたり言葉を聞いたとき、

そのくらいの感覚でいると

楽なんじゃないかなぁ。





(^o^)ノ < おやすみなさーい