本日は夏目漱石の妻、夏目鏡子の命日ということで、彼女にまつわる創作小説を晒すことにしました。読まれるにあたり注意点は以下の通りです。



※注意※

※本作は夏目漱石の妻である夏目鏡子さんに関する史実ベースの創作小説になります。

あくまでも史実ベースですので、勿論フィクションであり、実在する人物には関係がなく、侮辱する意図はありません。


語り手となる男性は、漱石先生主催の木曜会(文学好きが漱石宅に木曜日に集まり、文学や色々な話をする会。著名なメンバーは森田草平(平塚らいちょうの心中未遂相手)芥川龍之介など)のメンバーで、森田草平の友人という設定です。


以上を聞いてもバッチコイな猛者のみお進みください。

カッときて書いた……後悔は…………………………あるに決まってんだろう(涙)


没後53年目の命日である本日……夏目鏡子女史に思いを寄せて……。


~蛙の腹~







大東亜戦争(太平洋戦争)が終わって18回目の春が巡ってきた……昭和38年の春先だった。

自宅の電話のベルが鳴り響き、今年中学校を卒業して上京し我が家で住み込みのお手伝いをしてくれている佳代子君が受話器を取った。

『はい、……でございます。』

まだ彼女の郷里の訛りが残る発音で、東京言葉を話す彼女のあどけない声を耳にしながら、縁側で足の爪を切っていた私は、先日うちの家内から指導された通りに電話の受け答えをする彼女の声を背景に


パチン、パチン


という音を立て足の爪を切り落としていく。
先日から花をつけたばかりの庭に咲く桜の木を見上ながら私は、佳代子君より年嵩の……今年音大に進学したという孫娘の顔を思い出していた。
この爪切りの音のように小気味良い受け答えをする、世間で言えば生意気な少女である彼女は……あの人に似ていた。

あの人は、私が尊敬する文学者の妻で……世間的には悪妻と呼ばれる人だった。
勿論、世間よりも……俗に言う『木曜会』のメンバーたる我々は先鋒を切って彼女……我々の敬愛を一身に集めた夏目漱石先生の妻……夏目鏡子を嫌っていた。私の親友の森田草平を始め、最後の方に入ってきた年下の奇才……芥川龍之介君も例に漏れずに彼女を嫌っていた。


今思えば……それは彼女の性質がそうさせたというよりは、夏目先生の妻だからというのが理由のような気がしてならない。
それだけ、我々は夏目先生を熱狂的に静かに愛していたのだ。

それは菊池寛や折口信夫の言う……同性愛とは違うだろうが……我々の前では鏡子さんを邪険に扱いながらも、ふと目や言葉の端々に見せる……我々には決して向けない特別な情愛を、あのメンバーの誰もが感じ取っていたからだろう。


先生という父のような
偉大なる文学者が、ふと見せる
その様……人間臭い……生臭さが
まだ恋も知らず、女も知らない我々には
一風の清涼の中に香る目障りなものとしてしか思えなかったからだ。

そんな偉大なる漱石先生は大正5年に亡くなり
後を追うように芥川君も自死し……
木曜会のメンバーも次々鬼籍に入り
夏目家とも自然と疎遠になった。
時折、親友の森田草平と語らう中で夏目先生の話は出てきたが……それも年に数回の話であり、あの戦争が終わった4年後に彼が死んでからは、その機会もなく……。


何故、今になって……先生や鏡子さんのことを……と不思議に思いながら、最後に小指の爪を切っていた時だった。


パタパタという足音と共に、誰かの気配が近づいたと思えば……佳代子君の声がすぐ後ろからしたのだ。


「畑中様という方からお電話です。」


佳代子君がそう告げると頭を下げて、またパタパタと奥に下がる。私は新聞紙の上に散らばった爪を庭に落とし、電話口へと向かった。

畑中とは、かの『木曜会』のメンバーであり
先生の才を受け継ぎ文学的才能を開花させた芥川君や森田らとは違い、その後、つまらぬ勤め人となった……日陰者の私と同じ種類の仲間だ。

森田が死んで以来、特に会うことがなかった彼が今更、何の用事だろうと首を傾げながら私は受話器を取った。


「久しぶりだね。畑中。どうかしたのかね?」

と言う私に畑中は思わぬ事を告げた。

『単刀直入で失礼する。夏目先生の奥さまが昨日亡くなられた。私は弔問に伺おうと思うのだが、君はどうするね。』


鏡子さんが亡くなられた。その言葉に私は、しばらく沈黙したあと……ああと溜め息をついた。


「……そうかい。奥様も随分お年を召していたからね……。」


これも虫の知らせというものだろうと……私は畑中と待ち合わせの場所を決めて後、受話器を置き、佳代子君に声をかけ喪服の支度を頼むと書斎に向かった。


不意に、夏目先生が亡くなった時の芥川龍之介君の泣き崩れる様が思い出された。
あの時は、あまりに泣くもので……皆総出で慰めにかかったものだが、慰める方も終には慰める言葉を失い随分困り果てたものだと思いつつ、私は涙のひとつも溢さない自分の冷酷さに驚いていた。

芥川君の泣きっぷりに、気を削がれたのもあるが……。

その時、草平が憎々しげに鏡子さんを見て呟いた言葉がありありと思い出された。

『夫が死んだのに涙も溢さないとは……未亡人の自覚なしか。未だに死なない恥知らずそのものだな!』



未亡人……未だに死なない人と書く、その言葉は儒教からきていると記憶していた。

確か『木曜会』でも、その話があった。

太古の支那(中国)では夫が死ねば、その持ち物たる妻も死ななければならない風習があった。

そうだ、あれは熱い真夏の夜だった。鏡子さんが冷たいお茶を持ってきてくださったのだ。
そんな時、そんな話を耳にした彼女は笑いながら答えた答えに一同、唖然としたのを良く覚えていた。


『死んだ人と一緒に死んだら……誰がその人を覚えていてさしあげるのかしら?子供が幼く世話が必要だったら?どちらかが倒れた時に遺志を引き継ぐのが本当の供養ではなくて?』


いつもなら、『鏡子!』とたしなめる先生も閉口していたのだから、我々が反論できるはずもなく……今思えば……至極真っ当な答えだが、あの当時の馬鹿の上に純粋がつく我々には受け入れられよう筈がなかった。

先生宅を後にして……その不満が一気に爆発したのは無理のない話であり


我々は次々に『夏目鏡子はやはり悪妻だ。』と憤った。


そんな波乱な『木曜会』から、数日経った頃だったように記憶している。
先生が、お探しになっている資料を郷里の父が所有しており、それが届いたものだから私は、夏目先生に先に訪問の断りを入れることなく御自宅へと喜び勇んで駆け出していた。


芥川君や森田のような才もない私は、夏目先生のお言葉を伺うだけで精一杯で……あれだけ通っていながら、親しくお話をするという機会に恵まれなかった。

私のような才もない凡人が発した言葉で……あの会の雰囲気を壊したくなかったのもあるが……夏目先生に落胆されるのが……小人に思われる事が何よりも怖かったのだ。


そんな私に出来た、夏目先生との唯一の接点だったものだから私は浮かれた。

あのメンバーの誰もが……私自身さえ
私という存在は『森田草平のおまけ』という認識だったからだ。

これで先生とお言葉が交わせると……浮かれた私は普段なら絶対しない、断りなしの訪問などをしたのだから……どれだけ浮かれていたかは想像に難しくないだろう。


息を切らせて夏目先生の御宅に入った私に突きつけられた事実は、とても残酷なものだった。


「あら、主人でしたら熱海に行くとかで帰りは来週になりますが……。」


たまたま、外出先から帰ってきた鏡子さんに、そう告げられて、私が肩を落としたのは無理もない話であった。


それはそうだ。
あの夏目漱石だぞ。
常に自宅にいるわけがない。

己の浅はかさを呪いながら……御帰宅されたら直ぐにでもお読み出来るようにと、資料を鏡子さんに託して私は家路に着こうとした時だった。


「お待ちになって。冷たいお茶を差し上げましょう。」

丁度、子供たちのおやつの用意をしていましたしと彼女が笑う。

「いえ、せっかくのお申し出ではありますが……ご主人のおられない御宅にお邪魔する訳には……先生によろしくお伝えください。断りなしに訪問した無礼をお許しください。次回からは必ずお断りしてからお伺いいたしますので。」


ではと頭を下げて帰ろうとした時、またまた彼女が呼び止めるのだ。

今度は何かと振りかえると
彼女は突然、膝を付き、私の袴の裾を掴んだ。


突然のことに動揺して言葉を失う私に彼女は
使用人が水打ちに使っていただろう桶の水の中に
自分の懐から出したレースのハンケチを浸して私の袴を拭い始めた。


見れば拭われた
その箇所は、泥のようなものがついていた。
夏の暑さが厳しい今時分、何処の玄関先でも
避暑のために水打ちをしていた。
おそらく、走ってきたものだから泥が跳ねたのだろう。


それが分かり、少し落ち着きを取り戻した私は
鏡子さんにお礼を言うのと
やめて欲しいことを訴えようと彼女を見た。

私の目に飛び込んだものは
着物の襟足から覗く彼女の薄く汗が浮いた白い項と
その白さとは対照的についた赤い細い跡だった。


不意に、中学校の科学の時間の
板に四肢を打ち付けられ
白い腹を我々人間に向けるように
仰向けになっている
憐れな蛙の腹を思いだし
私はひどく動揺してしまった。

その白い腹にスィと教師がメスを入れ
ツイッと赤い線が浮かぶ。


ああ、あれも夏の日だったと
子供の時分に犯した悪戯と呼ぶには残酷な虫や生物の解体とは違い


ある種の茶道のような、様式に従いながら
手順良く進む
その作業に
普段は悪童と呼ばれていた級友も
利発さからくるのだろう活発な級友も

固唾を飲んで教師の作業を見守る。

そこには絶対支配者と隷属せざる得ない者が同じ空間にいるという、見てはいけないものを
まざまざと、手を伸ばせば確かに届く
そんな距離で眺められるという
確かな高揚感があったのだ。

ゴクリと喉が思わず鳴った。
蝉の声が煩い筈なのに、どこか遠い。
ツィと汗が頬を伝い顎に流れた。


「はい、取れましたよ。」

という鏡子さんの言葉に、彼岸にいっていた私の思考は呼び戻され弾かれるように彼女に頭を下げて走り出した。


それ以来、鏡子さんとは言葉を交わしていない。
『木曜会』にも学業を理由に顔をあまり出さなくなった。


あれから、本当に様々なことがあり
この真夏の出来事は、私の記憶の淵に追いやられ思い出すこともなかった。



翌日……畑中と待ち合わせをし、夏目家へ弔問に向かう道すがら、畑中は唐突に私に告げた。


「ねぇ。君……知っていたかい?夏目先生が奥様に乱暴されていたのを……時々、着物の裾や袂から覗く手足に痣があったろ?」

夏目先生が神経を病み、御家族に手を挙げていたのを知ったのは先生が亡くなってから随分後だった。


そして、先生の醜聞を隠し
先生を庇い続けていたのも鏡子さんだと。

いや、本当は知っていたのかもしれない。
夏目先生という偉大なる巨人を貶める要素は見たくなかったというのが本当の理由だろう。

実際見ていないなら
噂なら
なかったことに出来る


しかし……鏡子さんだけは
どんなに目を反らそうとも
現実にあり続けた



先生の唯一の汚点だった。


畑中が何故、こんな話をしたのか
私は続きを待った。

「奥様を悪妻だ悪妻だと私らは罵ったもんだが……今思えば……あれは……初恋をしながら、初恋の仕方を知らない馬鹿の上に純粋がつく阿呆の八つ当たりじゃなかったのかと思えるんだよ……君……。私らが苛立つほどに……あのふたりのお互いへの思いやりは眩しかったとね。」



ふわりと風に吹かれ桜がハラハラと舞い散る。
畑中が不意に私の袖を引いた。


「着いたよ。」


そこには懐かしい文字で『夏目』と書かれた表札があった。



随分無沙汰をしている我々にも関わらず、夏目の家の方々は温かく迎え入れてくれた。

奥の間に通されると
記憶より一回り小さくなった鏡子さんだろう亡骸が布団に寝かされていた。

挨拶前にと厠に行った畑中より先に私は
その部屋へ入った。


布団の近くに座り
しばらく頭を深く下げ私は
手を合わせ


誰にも聞こえない声で囁いた。



「随分……御無沙汰をしておりました。数々の御無礼お許しください。鏡子さん……私は貴女方ご夫婦のお互いを思いやる心に懸想しておりました。割って入れないからこそ……貴女に悪態をつくしかなかったほどに……。」


精神を病み、手を挙げる夫を庇い
決して離縁もせず
醜聞も外に出さず


現実の夏目漱石……夏目金之助に向き合い
生きてきた女性……夏目鏡子が
桜の花弁と共に旅立つ。


あの夏の日に
私が覚えた感情は……
今なら認める事が出来る。


あの真夏日に私は確かに
夏目鏡子に恋をしたのだ。


「私も……もう齢80の爺……この想いは誰にも言わず、あの世に持って参ります。私めが彼岸に行きましたらば、おふたりして笑ってください。」


しばしの別れを……と呟くや否や、厠から畑中が帰ってきた。私は彼に振り向くと静かに微笑み、鏡子さんへの挨拶をうながした。










~了~