バカとは、何なのか。
性格悪い人がバカ、知能指数低いよりも。
その人達の社会資質を向上できんから。
バカとは良く言われたり言ったものだがな




結局バカでも仕事できる様に育てれば勝ちで、
優秀でも地域乖離させて仕事を奪えば負けさせ
られる。
まあそんな言い方無いとは思ってる

社会行動心理学と経済予測と民俗主義上の
問題を変わらずに押し付けてくる市民が大嫌い
保守的な地域の老人の押し付け。人生も健康も能力も、
 
社会課題解決しない、未来的観測という見方もない



不穏な産業でも経済動かすから悪くないよと
社交辞令言ってるけど私は、当たり前にそんな
詐欺で発散する消費者も生産者も人格破綻と
近い。福祉概念から遠いから問題を大量に
残していく。学びを持つ方がこの先の社会は
絶対に向上する。散財と消費はもう不要だと
いう警鐘を感じられる事なくずーっと
続けている。異常消費がないと殺戮でも始めるの
かな。







#認知的自己開示

#意識や認知について書きたいかとなると、
心理学と脳科学、そして哲学なんだけど、
それは難しい。


ここで性格悪いひとはバカで、社会心理と民俗意識に
則る公害と言えるアウトリーチに走るという点を
論証して、経済的、福祉的未来の展望を数値的に設定した上で社会貢献性の否定と未来構築しないことを証明していけば、性格悪い人が未来に不要だという
論理展開してしまう事は、心理構造の単純さに
吐き気がする。

何事も論理式で展開できてしまうとなるとその
ような数学的考えも疑問視される程度の社会性すら
残ってるのにね。




最近の違和感は地域の民俗習慣に即した行動を
する人を無条件に受容したり、民俗慣習に
そぐわ無いと排除する社会心理だと思うけど
それが卑劣ではあるし正常判断とか、具体的に
就職、受験なども制約してる事。日常の凡ゆる
行動選択の制限になるぐらいに。
性格悪くても習慣に帰依してたら何でもいいわけ。
次は経歴学歴、年収地位とは、歴史論、資本論でも
掘り下げるほうがいい。学術継承できないから
企業に勤めてるんしょ?
大学にもいらん。先生の奴隷。現状変化のないこと
自分は割と、相手からしたら関係ないことでも
それは何類する問題排出か、規律や社会規範と
人間の行いとかかな。非謙虚さといった?
でも、ほとんど宗教に返される概念、信念は
文章化にもする意識の水面に表面に浮上しない

人間の道徳ほど理解の広いことない。発達、社会心理と宗教、そして道徳というのは民族思想のひとつ
として見てる。曖昧過ぎるし、その道徳感だけで
一つの地域集団も集結してしまう畏怖がされるから。
民俗無しに道徳感が通念されたら道徳じゃ無い、
新しい人間形成の質の革命って観覚。
ふかぼると一般感覚に乏しさが目立つので
もういいかな。



物を書くにも出版から嫌われてる
何も気が起き無い。いつも破天荒のやつの道具
。粗悪



何分野について書いてる訳でもなく意見
として大きくまとめてもなくで、中身が
伝わりにくいですけど、能力に反して多分野横断
しよとしてるせいです。でもそれも大事です。
本当は弁償的結論が欲しいです。
哲学嗜好もあって終わりですわ。








毎日、子供の事と保育のことと関わった人達から
リターンを請求されることとか、仕事を変える気が
しない事とか、モラハラの父と旦那野郎の思い出とか
それについての自己嫌悪とか人生とか実家とか新しい
協力者や友人パートナーとか、眼前の生活費の裁判
とか保証会社からの高額請求をそこから燃術するか
弁護士と自己破産手続きを先にするぐらいやる気もなく、更に動悸や発作がまずあるし、そこから嫌気。




関係する人を変えたい。ここまで長期に嫌な事
やらされてきたのに。自分を変えるのは難しい。
会話だけでもマウント。社会のことは考えない。
役所手続きも行けていません。人間は環境だけ。
もう嫌な扱いこれ以上しないで下さい。

ナラティビズム?の被害救済が無い地域開発は、政治の資金流れも大企業の介入も、治安の維持も、産業の質崩れとかも、気持ち悪い。意味がわからないとか相手の話を聞こうとする気だけあれば聞けるので。

意味を受け取ろうとしていなくて自己保守だけ。
人間対話を完全拒否し続けてる。
極端思想に走りがちなのを差し置いてもね。
じゃあ自分の書く分以外は読めるの?文句言う奴







マウント手段を取られるからって他者否定するな
まあそんな言い方無いとは思ってる





助けてくれた人も、感情が動くほど
返ってこないと言うか自分の私情が嫌に
なるだけだから。離れようとしてる事が多い。






文章に至っても、メディア批判するも世代批判するも
集中欠如だとかで変わらないです。
発達してる。





現状の筆記開示から始めると鬱になりそうなので
また過去の記録動画もそうです。内容が酷すぎて
妊婦も新米ママさんも見たら気分害するほどね。
やり取りが。



旦那モラハラ野郎の思い出はまだ、くふと笑える
余地ありともいえ。
性格上もこの先の時間を、自分の時間を


これ以上掘り下げる気持ちにならない。
それがトラウマ緘黙性でもある
非謙虚さとか




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結局ノンフィクションが1番楽しいとか、
誰かの実話が楽しいとか、そんな観覧対象される
事への批判抵抗だね。

多分数字に強くなっても、この論に落ちる所が
底つかないと物事の認知が崩落する。





人生にやり切るれることは少ないなと思う

筆記開示、日常記述も、何も無いわけではなくても
その意識の対象が、日々違う位置付けにもなる。それが気まぐれか精神病理か何かね。

日常の話題と、専門性の高い話題を振り分けて
記述解明するの程の観覚が持てない。だから私の書く事は意味が不明なのじゃなくて、意味論の上にある。それなのに、規定なる科目をも置かずに意味を超える芸術、哲学分野に手染める事がもう煩雑だった。
物語も論文もって事です。




また認知的な現状を心理関数化する人もいる。
明らかに哲学に飲まれていて、明らかに哲学は
過去のトラウマ経験や精神被害から。そう。


その割には発達的な行動に出る事で打破される
実態も悲しながらあり、自らインフルエンサーの
ような行動をとったり、心理行動指数を表すと
明らかに集合から外れ値を算出するような位置に
自分が居たりする。粗野。





誰かの話、何かの話を解明する。私は実存主義
であったり、半分理解してないけど現象学に染まってたりしてた。後は経験論。
で、経験論的実存主義って言うのは強いとは思っていて、それは実証主義も超える。社会テーゼの解決とか。
いがちゃんとおとんと実家、最近の推してるメンを
話すつもりが、実存哲学になっている。因みに、実証主義は社会地位と権威を信念としていて、実存は
例えば2人でお話をした時に唯一の相手の存在を認識する事自体に指点を向ける。簡単に。けれどそれが、氏名と言ったラベルを以ての証拠なのか、「あああの時の」と言った両方向からのそのような実経験の合致だとか、交互通行されない片側方向の実態は既に、毎度の様に位相空間においての記号化、ある種は社会行動統計に回帰されるべき固有値、最悪は
論理記号学から言語学によって認知学を使う統計手法を用いて析出して欲しいある意味の真理値だなと。
論理記号式の解を得る事すらなかった。広義的に言えば実存は共有時間を持ち、生き様を実行してる事。
その個体差の大きさ、社会性として測定され得る事、唯一性の高さ、何とも言えない。(外れ値が、
標準値や信頼区間と対比される事)
実測値より推理統計が必須な気がしてきてる。
回帰直線に寄せていく事では、より各個の時間の定義を明瞭にするべき様相。

元々、自己対峙と、自己回帰の究極の概念が、
実存だったりするはず。反して実証主義でも、権威機関の帰着する科学的根拠であり、論証であり、
ただ経験的事実という点では
同時代の蔓延たる組織権力による影響と
行政組織と言われるものと切り離せない。なにを
基底とするか。


歴史的根拠と統計がない頃の市民権、こういった
問題と人権と実存をどう繋がるか。




⟡.·*.·······················································································⟡.·*.


わかる?
大丈夫?と否定言い尽くし、環境加虐者達、集団マウントする人は評論家マウントして。何哲学とも、1人で何もしないとも、思論も無く。恥拙。大体いつも感想はそれで
まあそんな言い方無いとは思ってる

結局実存的に生きようと、日々修練に努める事を
目的にしてる。

当然ただ人は宗教概念で愛という観念は
統計と実証の上でしか実在観覚が認められない、
選択意志も無い
自然活動をしても受け取れる程広い心の深層学習を
教育受けてない。

ジオグラフィック要素の違う層達が今ここを、
即時共有するライフスタイルを固定着させてしまった、情報sns社会を支えるサポーターをも囲む
オーディエンスであって、回帰曲線の主軸を追いかけている主成分の様相にも感じた。
セルフタスクにまで仕立てている大衆を再度回帰させる事がそれで、自分が実存を定義する基底に当たる
時間共有の着尺にするのはその偏差ながら、はなから
課題にする民俗慣習の脅威の莫大さ、含有する統計的な主成分の経験則の末路、到底統計指標では答えにもならない。


別の観点から言うと、小コミュニティ同士の価値交換ゲームっていうのは、民俗的動機の価値をも超える
理で、言い換えると精神の原始的帰属でもなくて対立抗争の手段に思える。

だからアウトサイド側にライフイノベーションの様なアクションを掛ける事、
オンラインで終結しない現象学的アウトリーチという
換言できる。

単に感覚機能で認知される限り。



嫌になる事は、依拠するデータを取れる環境下にないまま起こる民事的な事件の解決が、未熟な従事者程に
内状を知る事を全く無く論証だの根拠だの外面だけの仕事を積載させる害。その害は、個人の名誉毀損であったり精神虐待だったり罪にならないんだろうか。

殊更にその都市独自の民俗慣習に淘汰される。



実際殆どの女性だと民俗習慣によって以外はなにも判断がつかず、男性でも余程意識的にしていない人以外はそう言った力ある女性に迎合していく、行動学的にも淘汰吸収されていくような動きを見せてるのでは。

しかも、それは自発的感覚が極乏しいことが非常問題で、生き方の言い訳の理由に利用するから、攻撃性を帯びて収拾付かない。


数学が中世には宗教支配下にあり、布教という
経済的活動に至るうえに更にその目的として学識を
利用していく事、民俗主義の極限。
残念なことに学識というモノは、人を支配する
為の権威的な差別の道具であり、中世以降は
中東をはじめとして積極的に経済活動にも付与
してきたといえ、それ自体は科学的な根拠だったり
人格向上や人間性を潤すことはなんかは程遠くて、
ただ傲慢強欲な非人格者の差別支配をより推進する、
学術機関が市民にひらかれないのも起因事象だし、
情報操作と隠蔽のために利用、悪用されていた事もあると簡易に推測できるし、明らかに現代人の崩落した
実態または失態をみれば自己承認や他者承認の為だけに学術促進を目的としていた事を、人間が無自覚点ありるし動機づけとしても人身攻撃的に利用せざるを得ないのだから、学術などではなくて現代様相から見ても明らかな民俗思想に偏った、支配欲の表れにすら
顕出されえる学問という虚偽の名目で隠した支配者の俗的欲求、人格形成不足をただ嫉みと他者理解の不足を認められずに学術という変動性の低い社会資産の皮を被り発散装置の燃料資材になり果ててる



そこまで学問を軽視したある意味非個人性を高め、
ある社会集団でしか発揮されない残念な論旨で
括らないとならないような学問を修得する義務を
規定されも、こんな本質から逃避する社会科学を
踏襲するような現代では個人性、個性、極限までの
差別化は社会集団の埋没し残念な事に自我形成する事は無理滑稽、寧ろ邪魔になる始末。
現代の社会科学的な発展には、幾人かのら専門家が
示唆する様、多重解析の固有ベクトルのような
価値について、先代による社会通念等のもはや
宗教的とも言える観念の再度隆起している事も感じられるし、社会(における集団を記号または関数として設定した数集合の存在している)位相とあった空間に
位置する駒であるとも否定できないはず。


永続的な感性でいながら、一瞬の雑楽の感情に
笑い転げている民など
直観の語りにも上がらなくない

格差を
拡大して知識的に資力的に、優位に立つだけ。
それにより権力影響側は学識や博識からは実質的に
かけ離れた



現代を見れば大学教師は生徒よりあきらかに
頭の悪い人や差別贔屓、生徒の無駄な人生を刻む事
の助長してる教員はたくさんいますね。



リターンのない事ばかり

エビデンスソーシャル、と言ったようなものは
全てベースにナラティブシンキングが含まれる。


住む場所のすぐ近くで建築や工事が行われる。
悩みと苦痛が増えると人生の質が下がりまくり、
幸福かどうかはもちろん、身体までぶち壊される。
フェアでも何でも無い。





でも遠く昔まで思い出すと私自身の間違っていた行動などがあるが私だけの責任には全く感じず、恩恵を受けたのが周囲のせいなら周囲に責任があるのと同じ事。
で他責が良くないというやつはそもそも、自己すら持ってないナラティビティから脱してから言えとな。
 

更に雑筆するけれど、


自分が正しく牽引されなかったこと、
それについて知らない人を傷つけることも、

なにも同じ価値観ではない他方同士を視覚や聴覚や
ナラティブの誤判断で繋げつけ、メディアは捲し立てる、
同価値のものがあれば勝手に一方的に、断る事もリターンもせず大人が搾取し続ける、それすら思ってない。誰もあなたと対話など求めてない。そんなヤツに限って子供は大人はと言って相手の状況を理解せず
自分のために搾取する異常な人間による
そういうアウトプットアクションが悪寒がする。

殆どナラティビティのベースで仕事する人から
大迷惑。

だからハラスメント被害者を同様に分かる事は
計画通りを潰されるからアクションに時間軸が無い
事。同じ時間を過ごせる相手では無いと断言していい。聞こえる声も見えるものも、世界というより
時間が違う方が正しい。どれだけ時計を見ても。
妄想逃げとか芸術ハラスメントしかしないやつら
だからもう考えたくも無いが単位時間設定の
時間概念が物理法則と合致するはずないってこと。

感覚でいえば、相手の事考えもない人の時間は
違うとでも言えるが、時間の便宜性だけを抽出したら本当に安っぽいもので、ただの人間が進数によって決めた単位、なにも疑問視されない異常性。
人類はそれをなにも共有してはいない。
誰でも分かるような記号通りにロボットが生産してる事。

時間は変化であり運動、主観では無い。
共通単位と思われているが、光の進む距離で
社会指標だなと思うがそれをベースに物理研究されている。共通単位。

この国が消えても民俗思想の裏をとるとか
心理を悪用する群民は絶対無くならない。

保守的な国があれば、サヨクもいるわけで。最悪。







田舎の人間にハラスメントを受けること困る。


嫌にならない事、それだけ。これ以上



私の家は身内だけで、幸せを形作る事を
よきとした。地域に馴染むとか文化教育は正直
されなくてそれで害悪を被せられたりした

それは家族や身内の害罪、ってぐらい人生を
潰してきた。結果的に、それは環境が問題と
なるほど、教育について無責任放棄してたから。


結果上手くいけば、小さい家族内で、ある種の
怒りや恨みを吐けて消去しあうべき。その単位集合を
超える何の科学的な根拠にも寄らないし、勝手な合理性に含蓄されるような地域や擬似の文化の支配を受ける事は、もはや家族でも何でもない。
地域社会というものは品がなくて体裁だけの悪の枢軸

父だとか、老齢ほど、自分が体裁に飲まれないように生活や役割をぎっちり固定化しないとそしてそれを動かされないように守らないと、通常精神状態も保てない事が残念にそれ。
そこらへんのおばさんになるほどやっぱり多い。

真理というようなもの。
環境とはあくまで社会資源で、家庭とか人類とか
家庭が恵まれなければ仕事でもどんな団体も、
安心する空間というのなら、家族は安心を守る
絶対的なものかと言えば違う。

モラ野郎とは、
自分を元気づける事を生き甲斐にしていた事は
自分でするべき事、
生活の一部か愛か捌け口か依存か、


楽しんで生活してるのだろうし
それに合わせるほどメンタルもたない。