二期会の公演「エフゲニー・オネーギン」最終日を見る。なんと言ってもコンヴィチュニー演出である。ところが、これは新演出ではなく1995年にヨーロッパで作成されたものの焼き直し。とはいうものの、コンヴィチュニーがちゃんと日本にきてかなり長期間演出をつけたようであるので、意図は徹底されているということであろう。コンヴィチュニーの演出は読み替えとかいろいろ言われているが、今となってはびっくりするような演出ではない。どこかをちょっとずらすことによって見方を変えるという感じである。またロバート・ウィル ソンのような様式性を追求する訳ではないので、あらかじめコンセプトがわかっていないと、意図をよくつかめないことがある。今回もそういうことがいくつかあり、例えば白樺の木や出演者が着ているコートの意味など見ているだけではわからない。

今回の演出での白眉は決闘の場とそれに続くポロネーズだろうと思う。決闘などしたくない二人をそれを許さない社会がうまく表現され、そのあとの華 やかなポロネーズで死体となったレンスキーとオネーギンが踊る場面は、その前の舞踏会の場面と重なりながら、虚無感と愛を感じさせるものであり、ちょっと 感動した。しかもそれを休憩の通常の幕間に入れるのではなくて、本来は場の転換しかしないところに入れてみせたところがこのこの演出家のすぐれたところだ ろうと思う。不思議なことに、このようなやり方でも決して音楽を損なってはいないように思えた。もともとチャイコフスキーの音楽は構造的ではないので、なん とでもなると言えなくもないが。また、最後の場面もオネーギンではなくタチアーナには何の救済もないことが示され、これはこれでショキングではあるもの の、演出としてはやや説明的に過ぎると思う。

歌手は若手をそろえて聞きものであった。なんと言ってもタチアーナの大隅智佳子が声的にはすばらしく、ピアノから フォルテまでよく通るビブラートの少なめの硬質の声で見事に歌いきった。ただ、前半の娘部分の演技が、演出の指示のせいか、内気な少女というよりもいわゆる 「ひきこもり」のようにも感じられ、手紙の場面なども少女の純真さというよりも恐ろしげな妄想に浸っているかのように感じられた。また、声に感情が乗っ ているかというとそれについてはまだこれからという気がする。タイトルロールの与那城敬は若手注目度NO.1のカヴァリエ・バリトンであるが、姿形も声質 も適役と思われるものの、声にムラがあり残念ながら期待した出来ではなかった。レンスキーの大槻孝志は、新日本フィルの「火刑台上のジャンヌ ダルク」以来注目してきたが、なかなかの出来。オケはまあまあ、合唱はマスとして聴くとそれなりに迫力もあったが、テナーがへなちょこか。

それにしても二期会も変われば変わるものである。総合的にはかなり満足した。二期会のどの公演にも行きたいと思わせるだけのものはあった。