志らく落語に思うとこ | 席亭こう生の落語的な日々

席亭こう生の落語的な日々

子供の頃からの落語好きが高じて、

いつの間にか落語会を主催する事に.....

全くの素人だった私がいかにいして

落語会を企画、運営しているのか

席亭こう生の落語的な日々...

立川志らくの独演会「志らくのピン」に
今年の8月から毎月通っている

これも、落語仲間のおかげでチケットを手に入れる事が出来る
(会場で次回分のチケットが販売されるため、そこでほぼ完売になる)

さて、志らく落語である

志らく師の落語をはじめて聴いたのは93年4月の「落語のピン」
まだ、二つ目の頃だった

その日の演目「火焔太鼓」に「こんな落語があったのか」と
衝撃を受けた私は、深夜テレビの前で一人興奮していた

今までの落語とは全く違う志らく落語にすっかり虜になってしまった
(その日の出来自体はそれほど良いとは思えないが…..)

それから二十年近くが過ぎ、
志らくファンの集い(?)でもある落語会「志らくのピン」

そこで聴いた落語は、実に映画的な表現が散りばめれた
計算されつくした演出がほどこされた洗練された落語であった

例えば8月の会での「一文惜しみ」

吝兵衛が八五郎から返却された一文を
町役人五人で毎日奉行所に持参しなければならくなった場面

番頭からその話しを聞いた吝兵衛

吝兵衛「大変な事になった」

大家「面白い事になってきた」

八五郎「おれは何だかわからねぇ」

この別々の場所にいる三人のセリフが同じ間合い、同じ長さで語られている

私はこの場面、吝兵衛のアップからのセリフ、同じアングルでの大家のセリフ
アップの八五郎のセリフ....
スパン、スパンとリズミカルに場面が変わる見事なカット割りに見えた。

11月の狸三部作(?)でも黒澤映画で多用されている「ワイプ」と呼ばれる
技法が私の目の前で展開されていた

その他にも映画的な演出は師の落語か随所に感じられ
師の映画に対する並々ならぬ愛情をかんじられる。

(それに対して談春師の落語は演劇的、舞台的であるが、その辺のところは機会があれば)


次はどんな映像を見させてくれるのか

それが志らく落語の私の楽しみ方のひとつでもある