鳥羽・伏見の戦い関連史跡~淀・千両松エリア②~ | 歴史と文化と和の心♪

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こんばんは‼

以前鳥羽・伏見の戦いに関連する史跡を数回に渡ってご紹介いたしましたが、本日も淀方面の史跡を巡って参りましたので、記録しておきたいと思います。

まずは、旧幕府軍の野戦病院となった長円寺です。

慶応4(1868)年1月5日。

富ノ森・千両松の大激戦で敗れた会津兵及び新選組ら旧幕府軍は、本営の置かれる淀方面に退却。形勢を立て直すべく淀城へ入ろうとしますが、入城を拒否されてしまいます。

旧幕府軍はやむなく男山・橋本方面へ撤退することとなりますが、負傷者や戦死者はこちらの長円寺に収容されたといいます。

門前には、石碑と

明治40(1907)年に榎本武揚が揮毫した

「戊辰役東軍戦死者之碑」

が建っております。

本堂は非公開ですが、東軍戦死者の位牌や、戦いで使用された砲弾が安置されているといいます。

さて、境内には閻魔王像が鎮座する「閻魔堂」があります。

この閻魔王像は古いもののようで、負傷した新選組や会津兵も拝んだと言われます。

 

なかなか独特なお参り方法で

一、像の前にある太鼓を10回強く叩く

二、閻魔王と目を合わせる

三、合掌して閻魔王を拝む

四、太鼓を3回強く叩く

との説明がありました。

 

説明通りにお参りさせていただくと、ご住職の方が戦いにおけるエピソードをお話ししてくださったのですが、胸が熱くなってしまうという・・・( ;∀;)←

 

ちなみに何故この寺が戦場にならず、朝敵となった旧幕府軍の治療や戦死者の供養を続けることができたかですが、この閻魔王の前で争うことは禁忌(タブー)でして、罪を犯すことが出来なかったというのが最大の理由なのだそうです。

また、閻魔堂では閻魔王から直接御朱印を頂くことが出来ます。

4月~7月末と10月~1月末、年2回の期間限定みたいです。

本尊である阿弥陀如来のものと、戦地で亡くなった会津兵と新選組の供養刀として奉納されている「和泉守兼定」「堀川国広」の2枚1組になります。

和泉守兼定は会津藩お抱えの刀工でして、松平容保が京都守護職として京都入りした際、一緒に上洛し、京都でも鍛刀していたといいます。

故郷会津に帰ることが出来ず、淀で亡くなった兵士たちに故郷の誇りをと奉納されているようです。

 

「八重の桜」の三郎(八重の弟)の戦死シーンを思い出してしまったではないか・・・( ;∀;)

己の「志」を全うし、己の生きるべき時代を必死に生き抜き、そして散っていった魂が迷わず光に導かれていることを願い、手を合わさせていただきました・・・。

さて長円寺からしばらく歩き、以前行きそびれた納所へ。

閑静な住宅地ではありますが

ここもかつては戦場だった場所。

ぽつんと石碑が建っておりましたね‼

このエリアにある妙教寺も、戦いの名残をよく残しております。

境内にはこちらもまた榎本武揚が書いた「戊辰役東軍戦死者之碑」が建っております。

門前の道は桂川沿いに北上しており、小枝橋から東寺口に至る街道でして、鳥羽・伏見の戦いでは敗走する旧幕府軍を追う新政府軍との間で銃弾が飛び交っていたといいます。

そして本堂、よく見てみると

銃弾跡が生々しく残っておりましたね・・・。

(´・ω・`)

ちなみに妙教寺には「淀古城址」と記された石碑があります。

そうです、淀さまが一時過ごしていた「淀城」はこの辺りみたいですね‼

(*'ω'*)

 

淀さまが長男・鶴松を産むため秀吉に与えられた城になりますが、鶴松はわずか3歳で病死。

淀さまはその後大坂城へ移り、淀古城は文禄3(1594)年に廃城。資材の多くは伏見城の建築に使用されたといいます。

 

地名に「北城堀」と書いてあったことからこの辺りかなとは思っていたのですが、やっぱりそのようです‼

今は殆ど何も残っておりませんが、地名が城の存在を物語っておりましたね‼

 

淀さまの城跡も確認したところで淀駅へ戻り、淀を後にしました。

淀駅から数駅先にある「墨染駅」で電車を降りて、ちょっと寄り道。

ここから歩いて10分ちょっとの場所に、近藤勇が御陵衛士に狙撃された現場を示す石碑が建っております。

 

慶応3(1867)年、御陵衛士首領伊東甲子太郎や仲間数名を油小路で暗殺された衛士の残党は、薩摩藩邸に身を潜め、新選組に対して復讐の機会を狙っていたといいます。

たまたま近藤が数名の隊士を引き連れ伏見街道を下っているのを見かけた衛士残党は「絶好の機会」と丹波橋筋の辻にあたるこの場所で近藤を待ちぶせ、辻に近づいたの見計らって狙撃。

弾は近藤の右肩に命中し、重傷を負ってしまいます。

近藤は痛みに耐えながら伏見奉行所まで逃げ込みますが、この時新選組隊士1人と馬丁1人が死亡したといいます。

 

結局近藤は治療の為、沖田と共に大坂の松本良順の元へ。

これにより、新選組は局長不在のまま鳥羽・伏見の戦いを迎えることとなるのです。

石碑は料亭・清和荘の前に建っておりました。

そしてここから20分ちょっと歩いた場所にある薩摩藩伏見藩邸へ(笑)

現在は酒造になってるとか・・・←

こちらの薩摩藩邸ですが、最近絵図が出てきたことで話題になっており、屋敷の規模や構造が色々判明してきているといいます。

絵図は縦99㎝、横128.2㎝で、東側を下にして「天明六年(1786)」と書かれているといいます。

それによると、屋敷の規模は南北99m、東西64m、敷地面積は4973㎡(1507坪)と推定されているとか(朝日新聞より)。

屋敷自体は鳥羽・伏見の戦いで焼失しておりますが、幕末史においてキーを握る場所だったために、これから様々なことが判明することが期待されます。

特に注目されているのが、寺田屋において伏見奉行所の役人に襲撃された坂本龍馬が薩摩藩に救出され、舟で伏見屋敷に入った「ルート」。

舟で屋敷まで運ばれたことは龍馬の手紙から判明しているみたいなのですが、どこからどのようにして入ったか、絵図から明らかになってきているみたいです。

 

これ割と最近のニュースなので、今後の情報に注目ですね‼

・・・また、13代将軍徳川家定に嫁ぐため江戸へ赴いた篤姫さまが、途中近衛家の養女となるべく京都に滞在した際の宿泊地もこちらになります。

 

 

何だか実際薩摩の中にいるとそうも感じませんでしたが、外へ出てみると改めて大藩だったんだな・・・と(笑)

やっぱり外に出てみて初めて分かる故郷の一面もある←

 

 

 

ということで、まだまだ見たいところはたくさんありますので、今度の休みも幕末史跡の散策に繰り出したいと思います(笑)

最近中学生だか高校生の頃に買った雑誌の付録だった幕末期の京都古地図(複製)が出てきたので、うまく活用したいですね‼╭( ・ㅂ・)و