木崎原の合戦~木崎原古戦場~ | 歴史と文化と和の心♪

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こんばんは。
本日の史跡巡りレポは、木崎原古戦場跡参りたいと思います。

昨年11月に車の免許を取得し、まず行きたかった史跡がこちら、木崎原古戦場です。
鹿児島市から車でおよそ1時間ちょっと、えびのICを降りてすぐの場所にあります。
 
実にのどかな場所ではありましたが、かつてここで「南九州の関ヶ原」と称される大合戦が展開したのです。

日向国のほぼ全域を手にした伊東義祐(よしすけ)は、小林に続き真幸院(まさきいん)への進出をはかります。
この辺りは当時島津氏が治めており、飯野城の城主はご存知、島津義弘でした。
 
伊東勢は真幸院の入口に建つ飯野城を攻略するべく、城の南側に位置する本地原(もとじばる)に進軍し、島津勢と衝突します。
本地原の戦いと呼ばれるこの戦は木崎原の前哨戦にあたり、両軍ともに勝敗が付かなかったといいます。
 
元亀3(1572)年5月、義祐ら伊東勢は飯野城を迂回し、加久藤城を攻略するべく夜襲をかけますがこちらも決着がつかず、どころか近くの木崎原で布陣しているところを島津勢に襲われてしまいます。
両軍共に奮戦するものの伊東勢は重臣たちが次々と戦死し、530人あまりの戦死者を出して敗走します。
一方の島津勢も250人ほどの戦死者を出し、合戦は終結しました。
 
戦後、伊東氏は衰退の一途をたどり、遂には親戚にあたる隣国の大友宗麟を頼ることとなります。
そして島津氏はこの合戦の後に日向国全域を制圧することとなり、三州統一が成されるのです。

激戦が展開した場所は現在古戦場公園となっており、杉の古木の周囲には六地蔵をはじめ、首塚・太刀洗川・三角田・元巣塚などを含め、県の史跡に指定されております。
駐車場やトイレも充実していたため、ドライブには最適です。
 
 
さて、戦いを物語る史跡を少し巡ってまいりましょう。

まずはこちらの石碑、古戦場巡りには必須な「戦いの名称」が刻まれております。
毎年5月4日の合戦日にはこの地で供養祭が行われているといいます。

石碑の前には三角田(みすみだ)と言われる広場があります。
この場所で義弘は伊東新次郎と戦い、槍で突き伏せたといいます。
・・・有名な伝説で、伊東新次郎の槍が義弘の首を掠りそうになった途端馬が膝をつき、義弘は難を逃れたという話がありますね!
義弘のピンチを救ったこの馬は「膝つき栗毛」と言われ、姶良市にその墓があります。
 
また、この時敵中深くまで進んだ義弘を退かせるため、6人の重臣たちが命を落としております。
 
関ヶ原の戦いにおいても甥の豊久をはじめ多くの重臣たちが義弘の盾となり戦死しておりますが、主君のために命を投げ打つことが、薩摩隼人の誉だったのでしょう。

三角田の前には、義弘の歌碑が建っております。
 
急ぐなよ 又急ぐなよ 世の中の
定まる風の吹かぬかぎりは
 
これは義弘が後世関ヶ原における敵中突破での心境を詠んだものといいますが、この歌、現代にも通じると思います。
初めて聞いたのが関ヶ原合戦400年の年だったのですが、これまでの人生において、頭ではわかっていても、ついつい先走り過ぎて失敗するパターンが多々ありました。
やはり時代を見据え、冷静な判断が良しとされるのは、いつの時代も同じですね。

古戦場の目印となる杉古木の下には、石灯籠式の六地蔵があります。
義弘は戦が終わると戦地に写真のようなタイプの六地蔵を建て、敵味方問わず供養したといいます。
木崎原のものは高さが3mありましたね‼

六地蔵の横には義弘が伊東新次郎との戦いの後一時腰を掛けたとされる「腰掛石」があります。
緊迫の瞬間から解放され、ここで一息ついたのでしょうか、歴史にIFはタブーですが、ここで義弘が討たれていたら、歴史もだいぶ変わっていたことでしょう。
 
人の歴史は、本当に奇跡の連続なのかもしれません。
 

また、古戦場公園のすぐ南を走るJR吉都線の踏切を渡ってすぐのところに、元巣塚と呼ばれる塚が建っております。

「元巣」とは薩摩藩の地頭、伊集院肥前入道元巣という人物の名になります。
当時、この辺りの村人や通行人、牛馬が突然謎の死を遂げるという不可解な事件が多発し、これは伊東勢の祟りでは、という噂が立ったといいます。
そこで元巣が村人たちの不安を取り除くべく、慶長18(1613)年に立てたのがこの塚だといいます。
 
二段式の石積みで自然石を使用しており、なかなかユニークな形の塚でしたね!

そして東へ車を数分ほど走らせたところには首塚が立っております。
この塚は伊東軍の塚と言われ、三ツ山城での首実験の後、名だたる将兵たちの首は小林の伊東塚に埋葬されたそうですが、その他の戦死者はこちらに埋葬されているといいます。
 
「元亀三年五月四日」と刻まれた首塚。とても鬱蒼とした所にありましたね・・・。

また首塚の向かい側には、合戦後に島津軍の将兵が血の付いた刀を洗ったという太刀洗川があります。

というものの、現在は渇水状態。
当時は水量も多かったといいますね!

こちらから木崎原古戦場を一望することができます。

中央の杉の古木が目印です。
こちらから見ると、ハート型でした(笑)
 
 
 
 
ということで、初心者ドライブには実に最適な場所でした!
九州の古戦場は大体が車必須の場所にあるため、これからもどんどん幅を広げてまいりたいと思います。