稲荷山古墳と江田船山古墳の鉄剣 | 歴史と文化と和の心♪

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こんにちは‼

史跡巡りレポ行田編、ラストになりますが、稲荷山古墳の鉄剣についてご紹介いたしたいと思います。

埼玉古墳群の中にある稲荷山古墳。

発掘調査で礫槨・粘土槨から出土した副葬品に保存処理作業を行ったところ、驚くべき事実が発覚いたします。

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鉄剣のレントゲン写真に、金象嵌の銘文が浮かび上がってきたです。

しかも、古墳時代の金石文の中では最も数の多い115文字が刻まれておりました。

 

<表面>

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(書き下し)

辛亥の年(471年)7月中記す。乎獲居(ヲワケ)の臣。上祖(遠い先祖)の名は意冨比垝(オホヒコ)。其の児、多加利(タカリ)の足尼(スクネ)。其の児、名は弖已加利獲居(テヨカリワケ)。其の児、名は多加披次獲居(タカヒシワケ)。其の児、名は多沙鬼獲居(タサキワケ)。其の児、名は半弖比(ハテヒ)

 

<裏面>

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

(書き下し)

其の児、名は加差披余(カサヒヨ)。其の児、名は乎獲居(ソワケ)臣。世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(大王親衛隊長)と為りて、奉事し(大王に仕える)来たり今に至る。獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)の寺(朝廷)、斯鬼宮(しきのみや)に在る時、吾、天下を左治(治めることを補佐する)し、此の百練の利刀(鍛えられた刀)を作らしめ、吾が奉事の根原(由来)を記す也

 

 

・・・要するに、この刀を造らせたヲワケさんという方が自分は先祖代々朝廷に仕え、国を治めるのを助けてきたんだぞ( -`ω-)+ドヤァ...‼

といった内容の銘文かと←(コラ)

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博物館内部は撮影が出来なかったため、実物大のペーパークラフトをGET。

直刀でして、表面と裏面にびっしり文字が書かれております。

 

なお、こちらの鉄剣、銘文が発見されたことによって昭和58(1983)年に国宝に指定されております。

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注目すべきはこちら。

「獲加多支鹵」の文字。

 

そうです。

以前訪れた熊本の江田船山古墳でも同じ文字が刻まれた鉄剣が発見されております。

船山古墳出土鉄剣には、次のように刻まれております。

 

治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无□(利)弖八月中用大鉄釜幷四尺延刀八十練□(九)十振三寸上好□(刊)刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太□(和)書者張安也

(書き下し)

天(あめ)の下治しめす獲□□□鹵大王(ワカタケル)の世、事(つか)え奉る典曹人、名は无□(利)弖(ムリテ)、八月中、大鉄釜幷(なら)びに四尺の廷刀を用いて、八十たび練り、□(九)十たび振(う)つ。三寸上好の□(刊)刀也。此の刀を服(おび)る者は長寿にして、子孫は洋々、□の恩を得る也。其の統(す)ぶる所を失わず、刀を作る者、名は伊太□(和)(イタワ)、書く者は張安(チョウアン)也

 

・・・今でこそ日本刀旋風が巻き起こっておりますが、鍛刀する者の思いと自信がびっしり込められた最古の史料かと・・・←

 

 

それはまぁいいのですが、東国や九州の古墳から、漢字を記した刀剣が出土したことは、当時のヤマト政権の権力が広がっていたことを伺わせる重要な手がかりとなっております。

 

このヤマト政権が謎多く、いつ出来たのか、誰が造ったのか、不明な点が多く、諸説が展開しております。

 

ただ、稲荷山古墳・江田船山古墳共に5世紀後半ごろの築造と推定されておりますので、この頃には既にヤマト政権は全国展開していたことが伺えます。

 

未発掘の副葬品も数多く地中に眠っているはずなので、また今後の情報が楽しみですね‼

 

 

・・・その前に、ヤマト政権の創設が分かれば、邪馬台国の研究も大分変ってくるはず・・・!

古墳を前にすると、歴史ロマンが広がりますね‼(*´ω`*)

 

 

 

 

ということで、これにて史跡巡りレポ行田編は終了となります。

訪れてから半年近くかかってしまったことをお詫び申し上げます(`;ω;´)

 

 

次回からの史跡巡りレポはドライブ等で訪れた九州各地の史跡をご紹介してまいりたいと思います☆