こんばんは!
本日2回目の更新は、安宅関参りたいと思います。
安宅は梯川の河口にあり、古代より交通の要所として栄えていたと言います。
延暦8(789)年と推定される長岡京跡出土木簡に、安宅駅と書かれているのが最も古い史料とされ、奈良・平安期において北陸道の宿駅として駅馬が配置され、官人たちの交通に利用されてきたといいます。
中世になって加賀の海岸線を通り、北上した道を浜通りと呼びますが、梯川の河口付近には橋が架けられ、安宅は梯川の河口の要津として渡河の要地として栄えます。
鎌倉末期の安宅には白山宮に水引幕を上納した紺掻(こうかき=染物業者)が居住しており、南北朝期には禅宗寺院の聖興寺が繁栄していたと言いますね!
江戸時代になると、加賀藩の米蔵が設けられ、大坂への米の回漕や特産物の積出港、北前船の寄港地として発展し、船問屋の倉庫が河口に並んでいたそうです。
先ほどご紹介した弁慶・富樫・義経像の前には関所の雰囲気漂う門構えが。
ちなみにこちらは反対方向から見た図←
この門をくぐり、松林の方に入っていくと、安宅関跡の石碑(県史跡)が出て参ります。
付近には、与謝野晶子の歌碑も立っておりました。
ねたてる 安宅の沙丘
その中に 清きは文治 三年の関
以前関ヶ原を訪れた際に立ち寄った不破関 もそうですが、周辺を歩いてみると、当時重要な関所だったことがよく分かる場所です。
ちょうど日本海にも面しているので、交通の面に関しては申し分ない所でしたね!
この石碑の奥に神社が鎮座しているのですが、こちらはまた次回の史跡巡りレポでご紹介いたしたいと思います。