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昨夜『報道ステーション』の、スポーツコーナーでのインタビューで野村克也監督が仰ってた。
 
「俺は“夢”っていう言葉は大っ嫌いなんだ。夢っていうのは消えるから。はっ…!と目が覚めて、夢だったのかぁー…ってやつだからね。本気で目指すなら、やることはやる。あとは運に任せる。」
 
同感。
“夢”っていう言葉より“目標”。
 
“理想”を追い求める姿、“夢見る”姿、輝きがあって良いかもしれない。
でも、ずっと雲や霧のまま変わらないのはモヤモヤする。
 
せっかくだ。
 
確かに在るものだと感じて解るように“雨”か何かにしなきゃ。
 
 
今日は『海を飛ぶ夢(スペイン&フランス)』を鑑賞。
1つ1つの言葉に凄く深みのある作品。
 
内容は、二十数年前に起こった海辺の事故で、首から下の自由が利かなくなった“ラモン”の思考や思想を中心にしながら、人の“尊厳死”についての裁判、ラモンが書いた詩の出版、そして、自分のもとを訪れて来る人や家族との実に濃い話し合い(討論)。
 
そんな“生きている”中で“生”と“死”、そしてそれ以外にも、話し合っただけでは解決出来ない…。いや、もしかしたら“無理に解決しなくてもいいのかもしれない”人生の問題(恋とか愛とか…)について提起する人間模様を描く。
 
 
この映画が公開され、世間で評価された当時から物凄く“観たい作品”として頭の中にあった。
だけど、実際観てみて思ったのは、今の自分になれたからこそ今の自分なりに解ることが色々と盛り込まれてた。
 
きっと、これを最初に「観たい」と思った当時の自分には決して理解出来ないものもあったろう。
(実際にそう感じた。)
 
1つの映画作品としての構成(画面のタッチ、カメラワーク、音楽、脚本)が、素人の自分にさえ素敵だと感じさせた。
それだけに、映画の専門家達に高く評価されたのが納得出来る。
 
自分がこれだけのことを感じて考えているのだから、他人だって、それと同等かそれ以上に色々なことに考えを巡らせているに違いない、と思わされた。
 
主人公のラモンは、「身体が不自由だから」「他人と比べてこんな(自分の)人生は嫌であり、必要の無いものだから」
っていう、ただそういう単純な思いで“(自分の)死”を見つめている訳じゃない。
いや、確かに言葉の節々ではそう取れるようなことも言ってるけど、漠然としたものを感じながらも、しっかりと自分なりの理由を持って、寛大ながらも時々それに怯える。
 
理解してくれる(してくれようとしている)人と、理解しようとしない(出来ない)人達との間で、最後まで周りに理解を求める…というより、違った考えを持っていても、それはそれで真剣に話し合えることを望み、自分の意思、自分なりのやり方でその道を選んだ。
 
途中に出てきた(同じ境遇の)神父さんの意見には俺もムカついた。
まるで全てを解ったような振りをして、いかにもなことを提唱する人。
「知ったかぶり」っていう言葉は、ああいう人達の為にもあるんだと思った。
 
解ろうとして解れない人なら許せる。
 
でも、周りから尊敬される立場にある人が、直接触れたこともない人のことを解ったような振りをして「実はこうなんだ」「こうすればいいんだ」なんて言った日には
 
「そんなに“人”の上に立って優等生振るのが好き?」って言いたくなるかも。
 
とはいえ、“死”というもの概念と共に「果たして、(自分の)普段の言動はどうか?」っていう問いを突き付けられ、改めて考えさせられる傑作。
 
製作に関わった方々に感謝の意を示したい。