前回の続きです。
今回は徳川家康の小牧山城です。
信長は小牧山城を居城として4年
後に、居城を稲葉山(岐阜)城に
移しました。美濃攻略が早く成功
したので、より難攻不落な岐阜に
移したのでしょう。
時を経て、
1584年小牧・長久手の合戦では、
織田信雄(信長の次男)と徳川
家康の連合軍は、秀吉に対抗す
るため、小牧山城跡に大規模な
改修を加えました。山麓の信長
時代の武家屋敷跡に、二重の土
塁と堀や、虎口を設けるなど、
より堅固な陣城となりました。
AIのGeminiにこの時の城を教
えてもらいました。
AIのGeminiが示した絵図です。
幕末の小牧城地図しかないので、
初めてAI使いました。記憶して
いるデータから表示しています。
信長時代の城下町は、ほとんど
が田畑に帰りましたが、一部だ
けまだ家屋が残っています。
この時代の土塁は鉄砲・大砲攻撃をする
ための塹壕です。
Google地図です。
家康の2重の土塁が復元されて
います。(一部分のみの復元)
「れきしるこまき」は
天守にある解説板です。
この2重の土塁は5日
という短期間に造られ
ました。
天守(小牧山歴史館)展示の絵図
です。内堀も造られていますね。
帯曲輪は信長時代の武家屋敷跡
です。
保存されている5日で造られた
土塁の断面です。
下図の小牧警察署の左側にある
土塁断面です。
現在地にあった案内板絵図です。
上絵図の現在地付近から
撮影した、復元土塁です。
1584年3月に始まった戦いは、
犬山城に秀吉、小牧山城に家康
が陣取って、膠着状態となりま
す。4月になると、家康の本拠
岡崎城を狙った秀吉軍の「三河
中入作戦」が行われ、池田恒興、
森長可、堀秀政が長久手へと進
出します。しかし、この作戦は
家康に察知され、密かに家康軍
により追撃されて、秀吉軍は大
敗します。池田恒興と森長可が
戦死してしまいます。
その後、秀吉は尾張西部へと、
戦線を後退させつつ、信雄領の
伊勢を攻撃し、攻防が続きます。
そして、11月に入ると、秀吉は
伊勢で戦いを優位に進め、秀吉
と信雄で和睦が成立し、長期に
渡った戦いは終結を迎えます。
江戸時代は尾張藩の領地となり
立入禁止地になります。
明治になり、小牧山には迎賓館
「創垂館」が建設されるなどし、
昭和2年(1927)、国の史跡とな
り一般に開放されました。
昭和30年(1955)に展望台が
山頂に設置される。昭和43年
(1968)になると展望台を廃し、
平松茂氏が私財を投じて「小牧
市歴史館」として模擬天守が建
てられました。
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