前回の続きです。
今回は焼米ヶ原までです。
尾花礎石群には10棟の礎石建物跡があり、
そのうちの1棟の建物周辺からは、黒く炭
化した米がたくさん採集されることから、
「焼米ヶ原」と呼ばれています。
県民の森センターにあった地図です。
⑥番札所の近くに焼米カ原が
あります。
焼米ヶ原の解説板です。
下図⑬から⑭方向です。
⑬から赤い線に沿って歩き、
⑭の頂上に行きます。
大野城跡は四王寺山とも
呼ばれます。焼米ヶ原の
最高地点⑭は見晴らしの
いい、見張台として最適
なところです。
右上⑭が焼米カ原の頂上です。
左端の植木は
植樹された「せんだんの木」です。
広葉樹林ですが、成長が早く硬い
幹なので、杉などの代替に植える
と、スギ花粉が抑えられると言わ
れます。
これは玄清法印の墓です。
玄清法印は766年に太宰府に生まれ、
17歳のときに視力を失うのですが、
盲僧となり琵琶を弾いて人々を救い
ました。
最澄が比叡山延暦寺を建立するとき、
毒蛇に悩まされます。そのとき法印
の噂を聞き、毒蛇退治を依頼しまし
た。法印が比叡山まで出向き、琵琶
を弾いて経を唱えると毒蛇は退散し
たそうです。
この功績により法印は「成就院」と
いう称号を受け、最高の僧位「法印」
の法号も授けられました。
そして延暦8年(789年)に四王寺北谷
に成就院を建立したと伝えられてい
ます。
太宰府で天然痘が流行したときに、
玄清法印は四王寺山に登って地神
陀羅尼経を唱えながら、琵琶を弾
き続けて天然痘の流行を鎮めたと
いいます。
玄清法印は822年に57歳で亡くな
ります。お墓は長い間、どこにあ
るか分からなかったそうです。
そこで一千年忌(1834)に建てられ
たのがこの四王寺山上のお墓です。
ところが明治34年(1901)に四王
寺山山麓の坂本で玄清法印の塔婆
が見つかりました。
そこで千百五十年忌を記念して、
坂本にもお墓を築いたのです。
なので玄清法印のお墓は四王寺
山の上と麓に2つあります。
道なりに進むと
右に行き、頂上の曲輪の下に
ある、帯曲輪を進みます。
この付近に咲いていた、
ツワブキの花です。
カメラを左に回すと
頂上が見えます。
帯曲輪を回ります。
下図⑦には⑦番石仏があります。
さらに右に進むと
回り込むと
この付近から左に曲がり、
頂上に登ります。
人のいる頂上が見えます。
ここを登ると
この上が焼米ヶ原の頂上です。
見晴らしのいい頂上です。
大野城南側の本丸とも言える場所です。
ここで記念撮影をしました。
カメラを右に回すと
ここで休憩するハイカーの方
達がいます。
今回はここまでで、次回に続く
次回は今年のまとめです。
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