英語が武器になるということについて | まこと君のブログ

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英語が自分の武器になる、という話を聞いたことがあったように思う。

 

しかしこれは疑問がいくつかある。

 

・定義について

 

まず、武器というのは自分にできることとか、特技とかといってもよいと思うけれども、具体的には何をできるようであったら武器と定義できるのかという疑問がある。もちろん独りよがりではなく、世間が認めるところの水準ではあるが、僕はその具体的定義というか内容に関して知らない。なぜかと言うと、主に受験勉強などで英語の訳読の勉強はしてきたのである程度の英文和訳はできるのではあるが、学校のカリキュラムに英語が含まれている以上あくまでも英文和訳の学力は一般的常識と言ってもよい。つまり一般的に出身校などから判断してある程度はできるであろうと期待されることは相当に高い水準に達していない限りは差別化を図りにくいと思う。決して自分を卑下しているわけではないが、客観的に見たらそう言ってよいと思う。ちなみに僕は英検準2級保有。ものすごくできるというわけではない。

 

・武器と専門との違い

 

専門とはプロのこと。その分野でメシを食っていくということ、あるいはそれでメシを食えるだけの力があるということだ。英語科で英語を学んだのであれば英語講師なり翻訳、通訳なりで英語を使うことでメシを食えるとは言える。この場合はいわゆる英語屋といえる。

あるいは研究者としてなら、英語圏の文化なり何かしら英語に関連した分野での研究でメシを食えるということでもある。

 

しかし、専門と武器との違いは何か?専門として英語でメシを食えるほどではないけれども、ある程度は英語を使えるということだろうか?それはそれでよいけど、それはいわゆるプロではないということだよね。英語の力としては中途半端というのか・・・専門では言えないけど武器というか、自分にある程度できることや使えること、ある程度は自分の見解を述べられることといえば他の科目でも同じことを言ってもよいのではないのかな?数学なり簿記なり、流行りのプログラミング、あるいは部活での競技の経験などなど。

 

それにしても、なぜ英語、特に英会話ができることがこんなにも過大評価されているのかなぁ・・・わからない。基礎学力が高いこととか教養があることよりも単に英会話ができるほうが知的であるような風潮は大嫌い。中途半端に英語を学ぶよりは論語など中国の古典を読んで人としての在り方を学ぶほうがよほどよいとは思う。昔の日本人が漢籍の素読をしていたようにね。

まあ、たとえ世間が英会話ができることをどれだけ持て囃そうとも、僕は基礎学力なり教養なりを高めることを優先する♪