まこと君のブログ

まこと君のブログ

みんなに感謝してます。
本や旅のことなどを書いています。

Amebaでブログを始めよう!

NICという留学準備校での勉強の内容やそこで学ぶ人たちについて書かれた本。

 

疑問や感想などを書いていく。

 

NICの制度についてあれこれ調べたところ、外国の大学で学ぶために必要な英語の力を身につけるのが目的の一年制の学校であるとのことだ。校舎は東京と大阪の二校がある。

スタディサプリというサイトでは本校は日本の学校教育法の管轄外とあるが、これは何を意味するのだろうか?たとえば、履歴書の学歴欄にNIC入学と修了と記載できるのか否か、通学定期券を鉄道会社から発行してもらえるか否かなどが気になる。少なくとも、NICのウェブサイトには上記の学校教育法の管轄外であることについては書いていない。

 

NICの学費は約200万円弱であるが、英語の学習のためにそれだけのお金を払う必要や価値はあるのだろうか?地方から上京するのなら生活費のためにさらにお金がかかってくる。

NICは通訳や翻訳など英語で飯を食えるぐらいの力をつけられるだけのカリキュラムを提供しているわけではなく、主にアメリカの大学で通用する英語の力をつけられるカリキュラムを提供しているが、それはいったいどのような内容なのだろうか。果たして一年間と200万円を払うに値するカリキュラムなのだろうか。この点は極めて疑問に思う。価値観はそれぞれとは言えるが、英語の習得のためだけにその金額はあまりにも高すぎるのではないのか、というのが率直な疑問ではある。

NICはアメリカのコミュニティカレッジとの提携をしているとのことで、NICを修了した後、ほとんどの修了生は提携先のコミュニティカレッジ、いわゆるコミカレに進学するそうだ。

 

コミカレについて調べたところ、コミカレはすべての人に大学教育を提供するという理念のもと、ほぼ学力は問われず、全入制度であるとのこと。コミカレの授業料を支払えるかどうかの残高証明書、トーフルの点数表、高校などいわゆる最終学歴の成績証明書の提出ぐらいでコミカレには入れるそうだ。もっとも学力不問で入学可能なのでトーフルの点数や成績証明書は合否にはほぼ関係なく、実際に必要なのはほぼ残高証明書だけと言えそうだ。

 

アメリカの大学とはいってもNICの提携先のコミカレがほぼ学力を問わない全入制度であるなら、なにも一年間と200万円をかけてまでNICで英語学習という留学準備などしなくてもよいのではないのか、というのが正直な感想だ。

まずはコミカレに入学して、現地での生活になじんだり、コミカレでの勉強に試行錯誤しながらついていったりするのが賢明に思う。アメリカは日本と同じく先進国であり途上国ではないので、インフラの活用など、現地の生活への適応にはさほど困難はなさそうに思える。

困難があるとすれば、やはり英語の活用なり、コミカレでの勉強と思われるが、だからといってNICで英語を学ぶ必要はあるのかどうかはやはり疑問だ。

NICの講師陣は母国語が英語で英語教授法を習得しているとのことだが、同期としてともに学ぶのは英語を母国語としていない同じ日本人だ。NICで学ぶよりは現地で英語ネイティブの教授や学生、非英語圏出身者の学生なりと実際に英語で接するほうが英語の上達には有効に思える。

 

 

 

 

 

こういう形での留学は失敗するという事例に警鐘を鳴らした一冊と言える。

 

第五章は危ない留学仕掛人という内容だ。ここで取り上げられている留学エージェントが留学希望者にとっての最適な進路を提案しているようには思えない。自分たちのビジネスにとって都合の良い情報なり進学先の選択肢だけを提示しているだけというのか。

この本のまえがきにカリフォルニア州立大学という言葉があることが引っかかる。おためごかしな提案をする留学エージェントを名指しはしていないものの、カリフォルニア州立大学に関連した学校と提携しているエージェントなり留学関係機関なりを暗に指しているのではなかろうか?もっとも、そのようなエージェントも、たとえば発展と都合よく言い換えた名称変更をしているかもしれないが・・まあ、ネットで調べれば沿革はわかるのでそのような小手先の対策などはまったく通用しない。

 

その他、各国の教育システムを知らないまま留学するという事例もあるそうだ。さすがにこれには驚く。たとえ自分が入学する予定の学校ではなくても自分が進学する先の国の制度に無知であってはならないと思うのだが。制度についての知識は留学関連の書籍で情報を入手できるはずだし、僕も何冊かその類の本を読んで理解を深めることができた。もっとも、留学エージェント経由で留学をする人たちはおそらくはエージェントから制度についての知識をあまり教えてはもらえないであろうことは、この本の第五章を読むとなんとなしにわかる気がする・・・・・・

 

ひょっとすると、この本の出版の目的は留学希望者の人生を棒に振るようなおためごかしな提案をする留学エージェントに筆誅を加えることなのだろうか?

具体的には先に触れたカリフォルニア州立大学という名の入った留学エージェントを一刀両断に斬り捨てるというのか。

 

いずれにせよ、アメリカ留学を考えるならばこの一冊を読んで損はないと言える。

英語が自分の武器になる、という話を聞いたことがあったように思う。

 

しかしこれは疑問がいくつかある。

 

・定義について

 

まず、武器というのは自分にできることとか、特技とかといってもよいと思うけれども、具体的には何をできるようであったら武器と定義できるのかという疑問がある。もちろん独りよがりではなく、世間が認めるところの水準ではあるが、僕はその具体的定義というか内容に関して知らない。なぜかと言うと、主に受験勉強などで英語の訳読の勉強はしてきたのである程度の英文和訳はできるのではあるが、学校のカリキュラムに英語が含まれている以上あくまでも英文和訳の学力は一般的常識と言ってもよい。つまり一般的に出身校などから判断してある程度はできるであろうと期待されることは相当に高い水準に達していない限りは差別化を図りにくいと思う。決して自分を卑下しているわけではないが、客観的に見たらそう言ってよいと思う。ちなみに僕は英検準2級保有。ものすごくできるというわけではない。

 

・武器と専門との違い

 

専門とはプロのこと。その分野でメシを食っていくということ、あるいはそれでメシを食えるだけの力があるということだ。英語科で英語を学んだのであれば英語講師なり翻訳、通訳なりで英語を使うことでメシを食えるとは言える。この場合はいわゆる英語屋といえる。

あるいは研究者としてなら、英語圏の文化なり何かしら英語に関連した分野での研究でメシを食えるということでもある。

 

しかし、専門と武器との違いは何か?専門として英語でメシを食えるほどではないけれども、ある程度は英語を使えるということだろうか?それはそれでよいけど、それはいわゆるプロではないということだよね。英語の力としては中途半端というのか・・・専門では言えないけど武器というか、自分にある程度できることや使えること、ある程度は自分の見解を述べられることといえば他の科目でも同じことを言ってもよいのではないのかな?数学なり簿記なり、流行りのプログラミング、あるいは部活での競技の経験などなど。

 

それにしても、なぜ英語、特に英会話ができることがこんなにも過大評価されているのかなぁ・・・わからない。基礎学力が高いこととか教養があることよりも単に英会話ができるほうが知的であるような風潮は大嫌い。中途半端に英語を学ぶよりは論語など中国の古典を読んで人としての在り方を学ぶほうがよほどよいとは思う。昔の日本人が漢籍の素読をしていたようにね。

まあ、たとえ世間が英会話ができることをどれだけ持て囃そうとも、僕は基礎学力なり教養なりを高めることを優先する♪

斎藤一人炎の浄化を読んだ。

蝋燭よりも焚火などの大きめの炎のほうがよいとは思う。丹田から下の部位と炎が管で連結している様子はなかなかに想像しにくいけど、ぼんやりとでもよいと思う。

この音源を流しながら浄化を行なうとよいそうだ↓↓

 

炎の浄化 癒しの瞑想音楽 [癒し・瞑想・528Hz] - YouTube

 

 

 

斎藤一人の不思議な魅力論では、我を消して愛を大きくするための言葉として取り上げられている。

一人さんやお弟子さんの著作の巻末ではたびたび天国言葉と地獄言葉の一覧が掲載されている。地獄言葉のひとつに悪口があるが、僕が思うに悪口を言わない自分でいるためには白光の誓いを口ぐせにするのがよいと思う。天国言葉をどれだけたくさん言っていたとしても地獄言葉を言っていては何の意味もない。まずは悪口を言わない自分でいること。そのためには白光の誓いを口ぐせにすることだ。

 

もし通うのであれば、通うことそのものが目的ではないからやめどきを決めておくことが大事だね。つまり、このぐらいの水準まで到達したらやめる、ということ。人それぞれにその水準は違うとは思うけどそれを知るのもまた勉強だろうね。

 

英会話を媒体としたサークルというか、友達作りを目的とした英会話スクールがあると思う。詳しいことは知らないしそれはそれでいいけど、英語の上達を目的とはしていないというのかな。それがいけないわけではないけど、英語を学びたいならなおさらそういうところには通わないほうがよい。特に中高生にとっての英語学習は英文法の習得や読解などの基礎学力をつけるのが優先であり、同じ年ごろの人たちが通うところならともかく、そうでなければ通わないほうがよい。

 

英語ができるというのは、とかく世間では英語を話せるということになるようだけれども、なぜだろうか。不思議と、英語の読み書きができるとか、英文読解に長けているとか、原書を読めるという意味にはほとんどならないようだ。昔から英会話偏重である風潮にずっと疑問に思っていたけれどもいまだにわからない。

 

自分たちの受けてきた学校での授業を思い出したり、教科書や参考書を読み返したりすると誰しも気づくはずだけれども、学校の英語のカリキュラムの目的は、訳読できるようになることではないのかな。もちろん多少はコミュニケーション英語のように、英会話とかリスニングなどを学習するのだろうけれども、だいたいは語彙を増やすことと英文法を覚えることを踏まえたうえで英文和訳をひたすら練習していたはず。したがって、ほぼ誰しもがその道を通ってきた以上は英語ができるというのは英文和訳をできるというのと同じだと言えると思う。

 

英文読解よりも英会話をしたい人はそうすればいいとは思うけれども、読み書きできることの価値が低く見られているような気がしている。なぜだろうか?

1。なぜ英語なのか?という疑問

これについては人それぞれにいろんな理由があるけれども、英語以外にもいろんな分野はあるので学習の対象にはもっと視野を広げたほうがよいのではないかという疑問がある。

 

学校の科目には英語以外にも数学や物理、化学、歴史などの科目がある。もしその中から英語を選んだのであれば、英語以外の科目にも目を向けてもよいと思う。

また、英語以外にも外国語はあるので言語の中から英語を選んだのであれば、中国語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語など英語以外の言語にも目を向けてもよいと思う。

 

2.英語ができたら・・・という思いを持つ人に確認したいこと

 

英語ができたら・・・という思いを持つ人は多数いるだろうが、できるできないで完全に二分できることではないので、英文法でも語彙でもこのことは知っている、ここまでは理解している、ここがわからない、といった現時点の学力を具体的に把握すべきだと思う。ただし、義務教育のカリキュラムや高校受験の入試科目にも英語が含まれていたことを踏まえると皆相応に勉強はしたはずなのでそれ相応の学力はあるはずだからまったくできないとは思えない。

 

3.英語で何をしたいのか、何をできるようになりたいのか?

 

もし高校なり大学なりの受験勉強で志望校に合格したいのであれば、やるべきことは極めて単純明快だ。試験対策をすればよいのだから、語彙を増やしたり英文法を覚えたり、英文和訳や和文英訳をできるようになればよい、となる。志望校の偏差値が高ければ高いほど合格安全圏の学力も高くなるだろうから、それに伴い、高い水準での学力が必要となる。最低限、志望校に合格できるぐらいは必要と言える。もっともこれは入試科目すべてに言えることであり受験の常識である。
 

英検など資格取得が目標であれば、各級ごとの対策本があるのでそちらを読めばよい。

 

英文学の鑑賞が目標なら、語彙を増やすこと、英文法を覚えることは必須であるが、それらは文章を読むうえでは当たり前である。文学鑑賞においては物語が書かれた時代背景や成立の由来、作者の経歴なり思想なり知ることなしには登場人物の言動の理由なり意味を理解したり解釈したりしにくいと思う。

 

3.英会話をできるようになりたい人に聞いておきたいこと

 

ネイティブと聞き間違うぐらい流暢に発音ができるようになったり、聞き取りもできるようになったりしたと仮定する。そのとき、誰と何について話したいのか?どうのような状況を想定した英会話なのか?語るべき中身の充実を図る必要があるのではないか?という疑問がある。
 

4.英語力をどこまで伸ばしたいのか?

 

これも人によるが、結局、英語で何をしたいのか、できるようになりたいのか、なぜ英語を勉強するのか、それらに行き着く問いかけだと思う。もうこれで終わりというのは、当人が勉強を辞めない限りは決してないと思う。

 

日本人の9割に英語はいらない、学ぶためのヒント、人生力が運を呼ぶ、英会話不要論などを読んだ感想を書きます。

ちなみに僕は語学は会話ではなく訳読を重視して学ぶべきだと思います。

 

・日本人の9割に英語はいらないを読んだ感想

 

海外旅行を除くと、ほとんどの日本人は学校卒業後に英語を必要とする職場に身を置くことはないのだから、同書にあるとおりといえる。とはいえ、入試の科目に含まれている以上、否応なく英語を学ぶ必要があるが、学校卒業後に過半数の人は英語を職場では使わない以上、膨大な学習時間を費すだけの英語学習は無駄になっていると言える。ほとんどの人は入試対策として好き嫌いに関係なく否応なしに英語を学習しているというのが実情である。たしかに、英語だけがあまりできなくても入れる高校なり大学なりがないわけではないが、偏差値の高い学校に入ろうと思えば、高い水準で英語もできなければならない。

 

・学ぶためのヒントを読んだ感想

 

英語のことわざに学ぼうと書いてある。英語圏、つまりは異文化の発想を学ぶことは自分の視野を広げるうえでためになると思う。ことわざに関しては、たしかに文法に基づいて書いてはあるが、せいぜい数単語、10単語以内でしかないので、理屈抜きに丸暗記したらよい。

また、語学は会話型と訳読型の二つのやりかたがある、とある。たしかにその通りだ。もちろん両方長けているに越したことはないが、まずは自分がどちらを優先して学びたいか、できるようになりたいか、が肝腎だ。もっとも現行の制度では、入試対策としての英語は文法重視、訳読重視になっているのが実情ではある。

 

・人生力が運を呼ぶを読んだ感想

 

学ぶためのヒントを読んだ感想と重複はするが、語学は会話型と訳読型の二種類の分類ができるので、少なくとも大学で学ぶ語学は訳読、文献読解であるべきという主張は大いに首肯する。もし必要なら会話学習は英会話スクールですればよい。

 

・英会話不要論を読んだ感想

 

僕が語学は訳読優先であるべき、という立場からか、英会話はあまり必要ないという思いを新たにした。

英会話をやるなら、誰とどのような内容を話したいのか、それを明確にすべきだと思う。というのも、たとえ英語をきちんと聞き取れるようになったりネイティブと聞き違うぐらいの発音をできるようになったりしたと仮定しても、語るべき内容が貧弱ならだれもその人の話を聞きたいとは思わないからだ。自分自身の内容を充実させたいのであれば、基礎学力をつけることや読書、旅などのいろいろな経験が必要だと思う。

同書では、平泉渡部論争という英語学習のありかたについて触れられている。

詳しい説明はここでは省くが、僕は平泉氏の提案にある通り、英語は入試科目から削除して、必修ではなく選択科目にすべきであると思う。というのも、日本人の9割に英語はいらないで算出されているように、学校卒業後にほとんどの日本人は英語を使わないからだ。使わない科目の習得のために膨大な学習時間が費やされているのならそれは無駄である。学校卒業後に使いたい、使えるようになりたいという人だけが選択科目として学べばいいと思う。

渡部氏の提案では知的能力の養成のために英語学習をすべきとあるが、現状ほとんどの日本人がさほど英語を習得できてはいない以上、知的能力の養成を目的とするならば、英語ではなく、ほとんどの日本人がさほど苦労なく習得できるような他のやりかたで代替すべきだと思う。

 

・結論

 

学校卒業後に大半の人が英語を必要としないことや大半の人はさほど習得できているとは言えない現状を踏まえて言うと、英語は必修のカリキュラムや入試の科目からはもう削除して選択科目にしたほうがよいと思う。そうするとそれほど英語を好きでもなく入試対策として否応なく学習している人たちは他の分野の学習をする時間が増えることになる。

結局、自分が英語で何をしたいのか、何をできるようになりたいのか、それに尽きるのではないのか。学習法は本なりネット上なりに溢れてはいるが、自分が英語で何をしたいのかが明確でない以上、学習法に振り回されるだけだと思える。

 

その他、日本人の脳では、母音言語を母国語として育つと自然のよさがわかる、とあったと記憶している。また、アルフレッド・トマティス博士の研究によると、言語が民族性を決めるようだ。YouTubeで日本人のすごさを取り上げる動画が多々あるが、日本人のすごさが日本語を母国語とすることから来ているところを見ると、日本人は従来の訳読式の学習はともかく、外国語会話はあまりしないほうがよいかもしれない。