現代のアイドルと、昭和アイドルの違いとは何か。

 

とりあえず、思いつく限り挙げてみました。

 

①歌詞を表現する力

②人数

③年齢

他にもあるでしょうが、とりあえず一旦はこれだけ…

 

 

①歌詞を表現する力

今のアイドルはスタイルも良いし、とてもカワイイと思うのですが、彼女たちの表現力は曲そのものよりも彼女たち自身に向けられており、「いかに自分をカワイく見せるか」に終始しているような気がします。

 

それは決して悪いことではなく、アイドルに必要なことでもあるのですが、曲は決して可愛さアピールのための道具や手段ではないのだと、今のアイドルを見ていると、たまにそう言いたくならずにはいられません。

 

もっとも、今のアイドルに与えられる歌詞に、リアリティや説得力がそれほど感じられないのも、アイドルの表現力低下に繋がっているのかもしれませんが。

 

AKBグループの作詞を手掛けている秋元康さんの歌詞も、最近聴いていると、詩と言うよりまるで文章ですし、昔のような遊び心や時代の色や流行のコンテンツを鋭く捉えたキレがあまり見られなくなったように思います(方々から批判を受けがちな秋元さんですが、彼の作詞の才能は本物であり、間違いなく80年代という日本歌謡曲の黄金期を支えた人物の一人です。『なんてったってアイドル』や『セーラー服を脱がさないで』といったヨゴレ曲ばかりが目立っていますが、好い詩もたくさん書いています)。

 

しかし、秋元さんがまだ若くてキレッキレだった、そして松本隆さんや康珍化さん、阿木曜子さんや来生えつこさんといった、才能溢れる作詞家が、一人のアイドルのために詩を捧げていたあの時代。

 

音楽はメッセージであり、詩の重要性が今よりももっと大きかったように思います。

 

そしてアイドルは、そのメッセージを、人々に届ける存在でもありました。

 

昭和のアイドルは、今のアイドルに比べ振付が控えめです。

 

わりと本格的にダンスを踊っていたのは、女性アイドルでは少女隊やセイントフォーくらい(セイントフォーにいたっては、女性版少年隊と呼ぶべきダンスの激しさでしたが)。

 

しかし、そのわずかな動作によって、詩の中に表わされる繊細な心情の動きを機微に表現していました。

 

楽曲の中の詩を咀嚼せずに歌うなど、当時のアイドルではほとんどありえないことです。

 

そうした、アイドルの詩に対する真剣さを示す、山口百恵さんの有名なエピソードがあります。

 

山口百恵さんは70年代に、森昌子さん、桜田淳子さんらと活躍された伝説的なアイドルですが、代表曲とも呼べる『秋桜』をもらった時、非常に悩んだのだそうです。

 

自分には、「この曲は歌えない」と。

 

『秋桜』はお嫁に行き家を出る娘の心情を描いた曲であり、まだ結婚が夢物語のようにしか感じられなかった百恵さんには、どうしてもこの曲を表現することができない、だから歌えない、と、そう思ったそうなのです。

 

もらった曲をただ歌うだけではなく、真正面から向き合い、時には悩み、自分の色で表現し、人々に届ける、それが、昭和のアイドルでした。

 

当時のアイドルの詩の表現を示す例を、いくつか挙げておきましょう。

 

 

松田聖子『ガラスの林檎』(1983)

作曲:細野晴臣 作詞:松本隆

壮大なスケールの楽曲ですが、聖子ちゃんのまばゆいばかりの声質と歌唱によって見事に歌い上げています。この年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を、この曲で勝ち取りました。

 

 

 

斉藤由貴『MAY(1986)

作曲:MAYUMI 作詞:谷山浩子

独特で複雑な世界観の詩ですが、由貴ちゃんが本来持つ透明感と、詩の世界の主人公になりきるような、彼女の感情の乗せ方で見事に表現しています。