例えば | ideogram

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所謂、普通といわれる内容の日記も有りな、いろんな意味でオタクが綴るブログ。アニメ、ゲーム、歴史(幕末、戦国)ネタもあり。

私は、親友だと思ってる子と、出会ってもう11年がたった。

高校1年の時の話。

しかし、その子と同時期に出会って、付き合いが生まれた人と、親友かと言われればそれはNOのはず。

出会ってからの月日の流れが同じでも、その間での密度が違う。


例え、出会ってから10年の歳月という『時間の流れ』があったとしても、それに伴う『密度』がなければ、そんな時間の長さなんて、ひけらかすほどの自慢になんてなりやしない。

出会ってから半年もたたなくたって、共に過ごす密度が濃ければ濃いほど、私はその人が好きになる。

それは、当たり前のことじゃないだろうか。


初対面から20年の月日が経つ、年に1回年賀状のお付き合い程度の友人と、

初対面から約1年ほどしか経たないが、毎週のように何らかのやり取りで心許せるようになった友人とでは、まったくその差は歴然のはずなのに。


私に、時の流れの重さはいらない。

密度が濃く、好かせてもらっている友人ならば、私は信用し信頼する。

…といっても、私は殆ど人を「信用」はしないので、『信頼』オンリーになるのだろうが。


昨日今日の仲だっていいじゃないか、密度が濃ければ一日がまるで1ヶ月、1ヶ月が1年分の充実に感じられるのだから。




例えば。


私にとっての知人である彼女。

知人である彼女にとって、私は「理解者」だという。


私は、彼女の何処を『理解』しているのだろう。

どこを『理解しなければならない』のだろう。

私は彼女の何処も理解していない。

理解出来るほど、出来ると自惚れが混じるほど「密度」は濃くない。薄くて薄くて、息をするのも辛い時がある程。

なのに、彼女は私を理解者だという。

人となり、思考の方向性、私がわかるのは精々それくらいなのに。

『理解』の押しつけじゃないか。

『理解すること』の強制・強要。


彼女は私の高校時代の、知人である。


未だ、『理解』とは縁遠いところにいることを、彼女はいつ、気づいてくれるのか。




少ないながらも、私には幸福にも(私にとっては)多数の友人がいる。

その友人達のことは、驕りだといわれても良いけれど、『理解』とまではいかなくとも枠どりくらいは把握しているつもりだ。

その友人達に『理解者』と言われれば、嬉しいに違いないだろう。

そして、その友人達も、私が及ばずながら少しばかりでも其方を見ているということを、知っていてくれている。(無論、全員のわけはないけれど)

それは、とても幸せなことだと、私は思う。

お互いに、通じあっているから。



それが垣間見えもせず、ただただ『理解の強制』は、私を、苛立たせるものに他ならないというのに。