【焼夷弾の薬莢を持つ南波さん】

 

 

【六角形の筒状。

表面は茶色くさびている】

 

 

 

【焼夷弾による火災で焼けて幹中央部分がコルク化したケヤキ(上田東高校)】

 

 

 

 

 

 上田市下之郷の南波嘉正さん(83)は「焼夷弾の薬莢(やっきょう)」を大切に保管している。

 これは、終戦前年の1944(昭和19)年12月9日夜、米軍のB29爆撃機が小県蚕業学校(現上田東高校)に投下したものの1つと思われるもの。

 

 当時、憲兵をしていた南波さんの叔父、直幸さんが空襲があった証拠品として持ち帰ったと推測される。

自宅敷地内にある物置の軒下に長く置かれていたのを南波さんが見つけ、それ以上の劣化を防ぐため室内に移した。
 

 直幸さんは徐州作戦で九死に一生を得て松本憲兵分隊付きになり、敗戦直前は軽井沢分駐所長を務めていた。

1998年に85歳で亡くなったが、戦時中のことはあまり語らず、南波さんも焼夷弾のことを尋ねることはしなかったという。
 

 焼夷弾は、金属製の六角形の筒で、表面は茶色くさびてざらざらしている。

長さは約50㎝、口径約8㎝。一方の先端は穴が開き、中は空洞になっている。
 

 南波さんは1954(昭和29)年に小県蚕業高校に入学。

校門を入って左手にあった柔道場の板壁には屋根から地上まで、太い帯状の焼け跡があり「焼夷弾が落とされた跡だと先生に聞いた」という。

柔道場は、その後、取り壊されたが、近くには焼夷弾による火災で幹中央部分が焼けてコルク化したケヤキの木が今も残っている。


 南波さんの父、嘉幸さんは37歳の若さで1944(昭和19)年にフィリピンで戦死。

南波さんは、1995(平成7)年まで12年間、上田市遺族会の副会長や青壮年部長を務め、慰霊のためフィリピンを3回訪れた。
 ロシアによるウクライナ侵攻の報道に胸を痛める。

「戦争になれば民間人が大勢犠牲になる。尖閣諸島や北方領土の問題など思いは複雑だが、決して戦争だけはしてはいけない」と力を込める。