【焼香する参加者】
【慰霊碑の前で記念撮影】
【黙祷】
【遺影】
【慰霊碑】
終戦直後の1945(昭和20)年8月18日、小県郡富士山村(現上田市富士山)の猫山で割腹自殺を遂げた遊佐卯之助(ゆさ・うのすけ)准尉(当時30歳)と妻子の「慰霊の集い」が命日の18日、猫山の観音堂参道脇にある慰霊碑前で開かれた。
市民有志が作る「慰霊の会」(栁澤文雄代表)が8年前から開いており、市内外から約40人が参列し不戦の決意を新たにした。
上田市神畑の手塚正道会長代行(79)=は「世界の一部では殺りくと破壊が進み、その流れは日本に及んでくるかもしれない状況にある。今こそ慰霊祭の意味を自覚し、今後も長く続けていかなければならない」とあいさつ。
遊佐准尉の妻、秀子さんの妹の長男、森田敏彦さん(64)=東京都昭島市=は「戦後で暮らしが大変だった時期に地域の方にこのような立派な顕彰碑を建てていただいたことを遺族は片時も忘れない。故人を知る94歳の母と91歳の母の妹から上田の皆さまに深く深く感謝を申し上げるよう言いつかってきました」と述べた。
遊佐准尉は上田市中之条にあった熊谷陸軍飛行学校上田分教場の教官として特攻隊員の訓練を担当。
「君たちとともに私も命を終える」という教え子たちとの約束を果たしたとみられ、辞世の句「特攻の花と散る日をまちしかど ときの至らで死する悲しさ」を遺した。
秀子さんは22歳、長女の久子ちゃんは生後わずか28日だった。
慰霊碑は1956(昭和31)年に住民ら有志が建立した。
参加者は一人ひとり慰霊碑の前で焼香し、上田いずみ合唱団が鎮魂歌3曲を合唱した。
同会事務局長の村山隆さん(75)=上田市下之郷=は「遊佐准尉の自決事件が上田であったという事実を絶対に忘れず、地域史の一部として継承していかなければならない。今ここに多様な人たちが集まったことの意味は大きい」と話した。




