【文化7(1810年)の相撲番付。

西の方大関に雷電為右衛門の名が記されている】

 

 

  現在の大相撲と雷電の時代の取組編成には多少の違いがあった。
 大関力士が幕下力士と本場所相撲を取り組むなど、今日ではまちがってもない。
 江戸時代にそれがあった。なぜだろうか。
 寛政9年(1797年)10月の江戸相撲番付を見てみる。最上段力士数、東西併せて16人、以下2段目32人、3段目53人、4段目64人、最下段68人、計233人である。(番付外の力士も数多くいた)
 平成9年3月場所番付はどうだろうか。最上段幕内力士、東西併せて40人、以下十両26人、幕下124人、三段目200人、序二段358人、序ノ口100人、合計848人である。ざっと江戸時代の4倍を数える。
 この差は単純に技術的理由で生じるものである。行司さんが、神技をもって虫眼鏡といわれる最下段の力士達の名も書く。それを縮尺して印刷にかける。
 一方、江戸時代はそんな印刷技術もないし、仮に800人の四股名を入れるとすると、番付が大きくなりすぎるし、第一コストが高くなってしまう。素朴な木版刷りでは限界がある。
 寛政9年10月場所の雷電の対戦相手の地位は次の様である。
 初日 東幕下五枚目
 二日 東幕下二枚目
 三日 東幕下四枚目
 四日 東前頭五枚目
 五日 東前頭三枚目
 六日 東前頭二枚目
 七日 東幕下筆頭
 八日 東小結
 九日 東大関
 十日 五人掛かり
 同じ西方力士とは対戦しないし、相手方の幕内力士は三役を含めてたったの八人。いきおい幕下力士とも対戦することになる。
 この場所、関脇力士とは対戦していない。この時の関脇は九紋龍という巨躯を看板にした力士で、時々は相撲を取るものの、土俵入専門といっていい力士である。雷電とは相撲を取れるほどの力量はなかったのである。
 (元長野県大相撲東関会長。「雷電とともに 田中邦文遺稿集」田中澄子編 抜粋)