【慰霊の会の栁澤委員長(右)と村山さん】

 

 

【遊佐一家の遺影】

 

 

【石碑に手を合わせる栁澤委員長】

 

 

 上田市富士山下組の猫山で、遊佐(ゆさ)卯之助(うのすけ)准尉(当時30歳)と妻子の一家3人が”自決”してから76年目にあたる18日、猫山観音堂下の慰霊碑前で「慰霊の集い」が開かれた。

集まった人は、戦争の残酷さから不戦の決意を新たにした。

 主催は地元有志でつくる「特攻教官遊佐卯之助准尉並妻子慰霊の会」=栁澤文雄委員長=。

 

 この日は、一家の遺影や辞世の句が並べられ、慰霊の会役員や地元住民など約10人は、冥福を祈りながら黙祷を捧げた。

この後、遊佐准尉の句を吟詠し、遺徳をしのんだ。


 栁澤委員長(80)は「遊佐事件は、限りなく悲しみに満ちている。遊佐准尉、妻子の慰霊と、貴い終戦悲話を風化させることなく、後の世にまで伝えていきたい」と語った。

 

 関係者の高齢化で亡くなっていく人も多いことから、事務局の村山隆さん(74)は「今後どうやって継続していくかが課題。市民団体として論議していかなければいけない」と話した。

 


 東京都出身の遊佐准尉は、昭和15年、現在の千曲高校敷地となっている上田飛行場の特攻教官として赴任。

多くの飛行練習生を特攻隊員として戦場に送り出した。

教育をともにした上官は予備兵と一緒に飛び立ち「自分は生き残ってしまった」との自責の念から自決を決意したとされる。

終戦前日の14日、両親に宛てた遺書で「特攻の花と散る日をまちしかど ときの至らで 死する悲しさ」と、辞世の句を残した。

18日、妻の秀子さん(当時22歳)と、生後27日の長女、久子ちゃんと、猫山の東斜面で自刀(じじん)した。

遊佐准尉は、教え子の手記から、温かく優しい人柄だったと言われている。
 

 

 慰霊会は、地域の協力を得て、昭和31年に慰霊碑を建立。

地元の下組自治会は、周辺の整備を実施するなどして慰霊碑を守り続けている。