作者の感性と音に関係があるか? | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

この前の続報から
パーペチュアル・カデンツァのヴァイオリン弦を張ってやや明るい音だという印象を受けましたが、依然交換したチタン製のテールガットの影響もあったでしょう。そこでカーボンのものに戻してみると、明るさが落ち着いて枯れた味のある音になりました。チタンのテールガットは明るい音でした。
明るい響きが抑えられ痩せて尖った音になりました。チェロ弦でも感じたパーペチュアルらしさというのはこんな所でしょうか。柔らかいというよりは鋭い音です。


餃子を作ったりシュウマイを作ったり、今度は絵を描いてみました。

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ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻作品の写真を描き写したのです。ベルニーニはバロックの芸術家として最も重要な人でしょう。しかしあまり一般には知られていません。カトリック教会の総本山ローマで活躍した人です。

これはダビデを彫ったもので、巨人のゴリアテに石をぶつけてやっつける少年の話です。有名なのはミケランジェロのものです。当然それを知っていて後の時代の人はそれを超えるというより困難な課題に挑戦したはずです。したがって姿勢も複雑で眉間にしわを寄せた厳しい表情で作られています。バロックらしいものです。とても少年には見えませんがもともとの石像がそうです。

この絵は10年以上前に途中まで描いてほったらしてあったものを人にあげようかと思って見つけ出したものです。あまりの出来の悪さに描き直したものです。

とくに人間は人の顔を見て個体を識別する能力を持っていて、また表情によって感情を理解できるようになっています。このため人の顔についてはとても敏感です。

人の顔を描くのはとても難しいです。胴体から描き始めて最後に顔を描こうとするとうまく描けないことが多くあります。単にリアルに描くだけならできるのですが、哀愁が漂う生活感が出てしまい古代やルネサンス、バロック彫刻のように「美しく」描くのはとても難しいものです。漫画のように誇張するのもできますが、リアルで美しく描くのはとても難しいものです。これは運のようなものでうまく行かないときは何が原因なのかわからないので初めから描き直したほうが良いかもしれません。何枚も大雑把に描いて良いものを選んだ方が良いです。
10年前はそれで力尽きていたのです。胴体のほうが未完成でした。

整形手術などがリスキーだと思うのは、美しさは他の部分との調和やバランスによって生まれるものです。例えば鼻だけを作り変えると全体とマッチしなくなってしまうかもしれません。優しく感じの良かった人がどぎつい感じになってしまうかもしれません。

それに対して胴体や手足などは努力で何とかなります。

こんなのがパッと描ければ私も才能があるということなのですが、何度も何度も描き直して苦労しました。そんなことを言うと「これで才能が無いなんて冗談じゃない」と言われてしまいました。でもフレスコ画などは壁が乾くまでの短時間で仕上げなくてはいけないので早く描かないといけません。また何かを写すのではなく自分で創造するとなるとはるかに難しいものです。
比べる相手が高すぎるのかもしれません。

このような能力が無くてもヴァイオリンを作ることはできます。しかしその人の造形センスを表すにはこのようなデッサンというのが分かりやすいでしょう。
ストラディバリならハープに彫刻を彫ったり、チェロの横板に装飾を描いていたりしますので当然このような能力はあったはずです。アンドレア・アマティの楽器には絵が描かれています。本人が描いたかはわかりません。チェンバロにも絵が描かれるのは普通でした。したがって絵を描くのは美的なものを作るうえでは基本的な能力です。しかしそうでなくても音が良い楽器は作れます。このため必須とは言えません。むしろそのような能力があっても発揮しきれないのが弦楽器製作です。楽器は道具であって芸術作品ではないからです。

ヴァイオリン職人を目指す人には弦楽器を習ってきて演奏ではものにならなかったので何か関連する職業は無いかと入ってくる人が多いです。全く絵を描いたりする能力が無い人が多くいます。一方で職人として見事な仕事をする人は絵くらい当たり前のように描きます。描く絵は芸術とは限りませんが・・・。

造形センスと仕上げの完璧さ


私は当ブログでもたびたび「造形センス」がどうだとか書いています。楽器を見たときにその作者に造形センスがあるかどうかを感じ取るのです。造形センスが無ければ高い値段がついていようが巨匠とされ有名になっていたとしても作った人は別に天才でも何でもなく、普通の楽器だということが分かります。値段が1000万円以上しても私には「並の楽器」であることが分かります。もし音が良いなら工芸品として魅力的なものではなく機能的に優れたものだということです。
たくさんの人たちがヴァイオリンを作ってきて、音はなぜかみな違います。音が良い楽器を求めるなら、天才的な作者を探すよりも、たくさんある楽器を試奏してなぜかわからないけども音が良いもの、個人的に気に入るものを探すほうが合理的でしょう。

造形センスは物の形をつかむ力、すなわち「デッサン力」と言えるでしょう。


これに対して加工の正確さや仕上げの完璧さがあります。造形センスとは必ずしも一致せず、まじめに修行して楽器を作れば努力によってできるもので才能は必要ありません。このようにして作られたものを私は「高品質」と説明しています。才能は無くてもまじめに作れば高品質な楽器ができるというわけです。

この時に、あまりにも造形センスが無いと非常におかしなものができます。先ほどの絵なら、手足や胴体の大きさのバランスがおかしければ、表面の陰影のグラデーションなどがいかにきれいに仕上げられていてもおかしなものです。こうやって見るとまだおかしな感じもしますが、これは相当直しを入れました。
仕上げは完璧なのに形が取れてない人のものは凡人が努力して作ったものだとわかります。
絵画でも昔は世襲制で職業選択の自由がありませんでした。絵の才能が無くても画家として職業を全うすることができました。そのような絵はヨーロッパの地方の美術館や教会に行くとたくさんあってきれいに描かれています。しかし才能が無いことはすぐにわかります。このようなタイプの親方はむしろ多数派で師匠として偉そうしているものです。才能にあふれた人のほうが少数派でマイノリティです。それでも強く訴えたいものがあると伝わるものです。災害や伝染病の教訓を伝える絵などはまさにそうです。カッコつけたいだけの絵とは違います。


現代の楽器製作では欠点のない完璧さが求められる反面、個人の感性が表面に出ないように作られたものが多いです。偉そうにしたい職人が才能が無いことがバレないように作ってあるようです。格好つけているのはすぐにわかります。弟子が作っている楽器を見ると欠点を指摘してダメ出しするのです。寸法を測って不正確なら怒られます。
立体物を作ろうというはっきりした意図が無く、おかしさが出ないように無難に作って表面をきれいに仕上げてあるというものです。そうやって作られたものでも高品質な楽器と言えるでしょう。このようなものも作られた楽器の中では珍しいもので見れば「お!」と注目するものです。さすが偉い師匠だと。


オールド楽器が面白いのは隠そうとか、ごまかそうというのが無くて素直に作ってあるところです。私もケチを付けられるのを恐れて空気を読んでしまいます。才能がある人はものすごく才能が出てるし、無い人は呆れるほどヘタクソさを隠していません。味わいがあるのです。


量産楽器には当然、造形センスを感じません。
品質管理をいかに厳密にしても、表面的なものです。
しかし品質管理をしっかりやれば先ほどの「偉い師匠」のものと変わらないものができます。

特に安価な量産品ほど品質をチェックするポイントだけそのように作って、チェックしにくいポイントは無頓着なものです。自分は完璧だと思っている「偉い職人」でも見逃しているところがあるものです。


造形センスが無ければいかに有名な作者でも、偉い師匠でも私は凡人の楽器だとわかります。一方、無名な作者の場合にはまじめに頑張って作ったなと印象を受けます。私は有名な作者、値段が高い作者ほど厳しい見方をしてしまいます。


古代ギリシャの神殿はそれが美しく見えるようにち密な計算がされていることは有名です。面白いのはダ・ビンチなどは人体の各部分の大きさの割合を数学的に理解したのに対して、ミケランジェロは感覚的です。ミケランジェロの絵は身体のバランスが滅茶苦茶です。それでも圧倒される迫力があります。その直後の時代の人はミケランジェロに習ってあえて身体バランスをおかしく描くのが良いと考えられたほどです。

だからそんなに厳密に考えなくても良いということでしょう。
ストラディバリも近代の楽器のような完璧さはありません。

感性と音?


人が描いた絵を見ても上手いか下手かしか感想が出ないのは残念です。
その人の感性が現れるからです。

人によっては殺気立った恐ろしさを感じることがあります。私の場合には力強さというよりは繊細な優美さが出てると思います。バロックの彫刻なのにルネサンスのボッティチェリのようです。
またあやふやなところが無く、雰囲気で見せる「絵画的な」表現ではなく物の形を正確にはっきりと描いているのは職人の目がなせる業です。

一般にデッサンと言えばもっと汚らしいものです。立体感をいかにつかむかが重要な課題だからです。私は白い大理石のように見えないといけないというこだわりがあります。色の濃さは鉛筆という画材の限界もありますが、白いものを描いている以上は黒く汚くなってはいけません。そもそも、古代ギリシャ以来の西洋の美意識も日本人には無いものです。ただ描くのではなくて、美しさに感動して描かないといけません。


なぜ優美なものを描くかと言えば、そうでないと、気になってしょうがないからでしょう。人よりもいろいろなことが気になります。これは楽器を作っていても同じです。作業をしている中でいろいろなことに気づきます。削って物を作っていくので不自然なところがあると取り除いていくのです。またわずかな量感でも削りすぎないように注意が必要です。
これに気づかない人はそのままです。そもそも荒く削っていく段階から違います。定規で測れるところだけ正確に作って満足する人もいます。

このような違いが音に現れるかどうかは分かりません。
でもそれ以外考えようがないのです。

同じ工房で同じ設計に従って、同じストックの木材を使い、同じニスを使っても人によって音が違ってきます。特に理由がわからないのは鋭い音がする場合と柔らかい音がする場合です。
普通は、職場なら採用の基準があって誰でも入社するというわけにはいかないのですでに偏りはあります。それに対して工房に出入りして趣味で作ったおじさんのヴァイオリンは2台ともとても鋭い音になりました。

作り方がマニュアル化され正確に加工できる弟子であれば工房内で作られたものは似たような音になります。それでも多少違いはあります。
技術が不正確な場合にはどうなるか全くわかりません。下手くそな職人の楽器のほうが一か八かです。腕の良い師匠や兄弟弟子よりも音が良いかもしれません。


私がこのような絵を描きますが、音もこのイメージとぴったりと一致しています。
やかましいにぎやかな音ではなく、きめ細やかできれいな音がします。


別のことも考えられます。
人柄が絵に出るとしたらどうでしょう。

そうなると人柄が音に出るということになります。
これについてははっきりした答えは分かりません。
技術者としては否定したいです。
技術的に考えると音響現象に作った人の人柄が現れるメカニズムがないからです。
どちらかと言うと音楽家のほうが考える理屈でしょう。

私が気にいらない所をすべて納得がいくように仕上げると私の音になっていくのでしょう。

だとすれば高圧的なカリスマ職人の楽器の音が嫌いという人がいてもおかしくありません。私もまったくカリスマ性が無いという事でもないでしょうが、優美なものが分かる人には分かるかもしれません。